宣化天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 天皇

宣化天皇(せんかてんのう、雄略天皇11年?(467年?) - 宣化天皇4年2月10日539年3月15日?))は、第28代天皇(在位:宣化天皇元年12月18日536年1月26日?) - 宣化天皇4年2月10日(539年3月15日?))。

諱・諡号

日本書紀』では、檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)という。 和風諡号は、『古事記』では建小広国押楯命(たけをひろくにおしたてのみこと)といい、『日本書紀』では武小広国押盾天皇(たけをひろくにおしたてのすめらみこと)という。


系譜

継体天皇の第二子。母は尾張目子媛(おわりのめのこひめ)。安閑天皇の同母弟。欽明天皇の異母兄。

  • 皇后橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ、仁賢天皇皇女
    • 石姫皇女(いしひめのひめみこ) 欽明天皇の皇后
    • 小石姫皇女(おいしひめのひめみこ) 欽明天皇の妃
    • 倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめのひめみこ、『古事記』に倉之若江王で男性) 欽明天皇の妃
    • 上殖葉皇子(かみえはのみこ、恵波王・椀子) 丹比公(多治比真人)・偉那公の祖
    • 某(夭逝、男女不明)
  • 妃:大河内稚子媛(おおしこうちのわくごひめ)
    • 火焔皇子(ほのおのみこ) 椎田君・偉那公?の祖
  • 母不詳

皇居

都は檜隈廬入野宮(ひのくまのいおりののみや、現在の奈良県高市郡明日香村檜前)。

事績・人柄

先の安閑天皇崩御したとき、その子供がなかったために同母弟の宣化天皇が満69歳にして即位した[1]筑紫官家の整備を行い、大伴金村に命じて新羅に攻められている任那に援軍を送った。即位元年(536年?)に蘇我稲目が大臣となり、子の蘇我馬子以降続く蘇我氏の全盛の礎が築かれることとなる。

高齢での即位と、在位が3年余りと短いため、あまり主立った事績は無い。また、安閑・宣化朝は父継体天皇死後直ぐに即位した弟の欽明天皇と並立していたとの説(辛亥の変仮説)もあるが、いずれにせよ、宣化天皇の血統も石姫皇女を通して現在まで受け継がれることとなる。

人柄は清らかで、君子らしい顔立ちをしていたと言われている。

陵・霊廟

(みささぎ)は、奈良県橿原市鳥屋町にある身狹桃花鳥坂上陵(身狭桃花鳥坂上陵、むさのつきさかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は鳥屋ミサンザイ古墳(前方後円墳)。

古事記』には記載なし。『日本書紀』『延喜式』には「身狭桃花鳥坂上陵」とある。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照表

後裔氏族

飛鳥時代から平安時代初期にかけて有力豪族・上級貴族として繁栄した多治比氏がある。また、その末裔に武蔵七党丹党がいる。一説に、飛鳥時代の歌人・額田王は宣化天皇の4世孫(玄孫)とも言われる。

脚注

  1. 『古事記』宣化天皇段(「宣化記」)には「弟(いろと)、建小広国押楯(たけをひろくこおしたて)命、檜垌(ひのくま)の廬入野(いほり)宮に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。なお、「宣化記」には系譜記事として、宣化天皇が二人の比売(ひめ)を娶って産まれた御子が男子三人・女子二人であることと、その子孫にあたる氏族について書いている。

関連項目

外部リンク


テンプレート:歴代天皇一覧