武田信廉

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逍遥院にある逍遙軒信綱の墓所

武田 信廉(たけだ のぶかど)は、戦国時代武将

甲斐武田氏第18代当主・武田信虎の子。母は大井の方で、信玄や信繁の同母弟。後に出家して逍遙軒信綱と号す。武田二十四将の一人。一般に逍遙軒(しょうようけん)として知られる[1]

生涯

天文10年(1541年)、兄晴信(信玄)は父信虎を駿河国今川義元の元へ追放して家督を相続し、信濃侵攻を本格化させ諏訪氏を攻め、諏訪氏を滅ぼし、諏訪地方を統治することになる。信廉の初見資料は晴信が諏訪統治を確立しつつあった天文17年(1548年)11月である。『高白斎記』に拠れば、信廉は諏訪衆千野氏に対し、武田方に謀反を起こした諏訪西川衆の追放と所領没収を伝えて知行増加を約束しており、諏訪衆に対する取次役であったと考えられる。また、同じく『高白斎記』に拠れば、天文20年(1551年)7月には晴信の命により、今川義元の娘を義信の正室に迎える旨を伝えている。

甲陽軍鑑』によれば信廉は80騎を指揮し、武田家臣団編成を記した『軍鑑』の「惣人数」によれば信廉は「武田」姓を免許された武田一族を記載した御一門衆のうち武田信豊(武田信繁嫡男)の次に記載され、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いにおいて兄の信繁が戦死したため、親族衆筆頭となったという。戦時には、後方守備や本陣守護などを務めている。元亀元年(1570年)には高遠城主に任じられた。

元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、一族の重鎮として飯田城代や大島城代などの要職を任された。父の信虎が信玄の死後に帰国を望んだため、信廉が信虎の身柄を引き取り、居城である高遠城に住まわせた。このときに「信虎像」を作成した。天正3年(1575年)、長篠の戦いに参戦したが、5月21日の設楽原合戦のときには、穴山信君らと共にいち早く戦線を離脱している。

天正10年(1582年)の甲州征伐では、織田信忠を先鋒とする織田勢が南信濃から侵攻したが、信廉は大した抵抗もすることなく、大島城を放棄して甲斐へ退却する。戦後、織田軍による執拗な残党狩りによって捕らえられ、勝頼自刃から13日を経た3月24日、甲斐府中の立石相川左岸にて森長可配下の各務元正豊前采女によって殺害された[2][3]享年51。墓所は甲府市桜井町の逍遥院にある。

人物・逸話

画家としても知られ、甲府の大泉寺に所蔵される「武田信虎像」(重要文化財)、長禅寺に所蔵される「武田信虎夫人像」(重文)といった肖像画のほか、同じく長禅寺蔵の「渡唐天神像」[4]などの絵画を残している[5]。また、永禄10年(1567年)、信玄が家臣団から起請文を提出させて生島足島神社に奉納しているが、この中には信廉直筆のものが現存している。

甲陽軍鑑』によれば、骨相が似ている信玄の影武者を務め、側近ですら見分けがつかなかったとされる。元亀4年(1573年)に西上作戦中の信玄が病死すると、死を内外に隠すために信玄に成りすまして軍の甲府への引き揚げを成功させた。また、北条氏政が信玄の死去を確かめるため、使者として板部岡江雪斎を甲斐に派遣したが、そのとき影武者としてこれを欺いたという逸話もある。

脚注

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関連作品

小説

  • 伊東潤『画龍点睛』(『戦国鬼譚 惨』収録の短編)
  • 号である逍遥軒の逍遥には遁世の意味合いが含まれる。
  • 『森家先代実録』によれば、逍遥軒は各務、豊前らが現れた時には刀を膝に置いたまま離さずに警戒した様子であった為、各務が一計を案じ、森長可所有の名馬「百段」を見せると偽って逍遥軒を外へ誘き出して一太刀を浴びせ、豊前が止めを刺したという。
  • 織田信忠が、信廉の身柄を預かっていた森長可に命じた。
  • 常盤山文庫にも画中の膝に「逍遥軒」の隠し落款がある「束帯天神図」(重要美術品)が所蔵されているが、信廉とは別人の逍遥軒作とする説もある(神奈川県立歴史博物館 『常盤山文庫名品展』図録(神奈川県文化財協会、1983年)。
  • 他にも身延町南松院に伝わる「穴山信友婦人像」が、画風の類似から逍遙軒筆の可能性が指摘されている(田沢裕賀 『日本の美術384 女性の肖像』(至文堂、1998年)ISBN 978-4-784-33384-4)。信憑性はやや落ちるが、武田氏と縁が深い高野山成慶院には、信廉筆と伝えられる「十王図」や「十二天図」が残っている。