坂本堤弁護士一家殺害事件

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テンプレート:暴力的 坂本堤弁護士一家殺害事件(さかもとつつみべんごしいっかさつがいじけん)は、1989年平成元年)11月4日に旧オウム真理教の幹部6人が、オウム真理教問題に取り組んでいた弁護士坂本堤(当時33歳)と家族の3人を殺害した事件である。遺体が容疑者によって隠匿されたため、1995年9月に遺体が発見されるまでは失踪事件として扱われていた。

現場にオウム真理教のバッジが落ちていたが、神奈川県警察は「事件性なし」として、捜査を行わなかった。犯行が明るみに出たのは、1995年(平成7年)9月、実行犯の一人、岡﨑一明(後に宮崎に改姓)が自供したことによる。

毎日新聞では松本サリン事件地下鉄サリン事件と並んでオウム「3大事件」(-さんだいじけん)[1]と表現している。

概要

ファイル:Sakamoto Ireihi.jpg
坂本一家の碑(魚津市別又谷山中)。現在は片貝山ノ守キャンプ場内に移設。
事件のきっかけ
「横浜法律事務所」に所属していた坂本堤弁護士は、江川紹子からの紹介で[2]、出家信者の母親から息子のオウム真理教脱会について相談されたことがきっかけとなり、1989年(平成元年)5月からオウム真理教の反社会性を批判・追及していた。同年10月下旬にオウム真理教幹部との話し合いが決裂し、坂本はオウム真理教の宗教法人認可取り消しなどの民事訴訟の準備に入った。
そのため、オウム真理教代表者麻原彰晃(松本智津夫)は「坂本弁護士の活動は、真理党からの出馬を予定している翌年(1990年)の総選挙や、今後の教団の発展の障害となる」と考え、信徒に彼の殺害を命じたとされる。
殺害決行
熊本県在住の在家信徒の弁護士から坂本の住所を聞きだすと、11月3日、オウム真理教幹部である村井秀夫早川紀代秀・岡﨑一明・新実智光端本悟中川智正が、坂本が通勤で利用する横浜市洋光台駅付近で坂本を待ち伏せし、自動車に連れ込み塩化カリウム注射して殺害し、遺体をそのまま運び去ろうと計画していたが、この日は祝日であったため坂本は現れなかった。
このため、麻原の指示により坂本の自宅に向かい、翌11月4日未明に自宅に侵入。端本が坂本堤に馬乗りになり、岡﨑が絞殺、新実が坂本の妻(当時29歳)を絞殺、中川が坂本の長男(当時1歳)の口をふさいで殺害した。
その後
坂本一家が失踪した直後の1989年(平成元年)11月21日には弁護士有志の団体として「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」が結成され、1995年(平成7年)9月に遺体が発見されるまでの間、坂本一家を救うべく、日本全国規模でチラシ等の配布やキャラバン活動が展開された。
坂本の遺体は新潟県西頸城郡名立町(現・上越市)の山中に、妻は富山県魚津市別又の林道別又僧ヶ岳線脇に、長男は長野県大町市日向山の山中に埋められた。

遺体発見とその後の裁判

1995年(平成7年)地下鉄サリン事件が発生したのち、警察はオウム真理教の捜査を本格的に開始。その中、岡﨑一明の自供により坂本の一家が殺害されていたことがわかり、同年9月6日警察による山中の捜索が行われた。同日、坂本と妻の遺体が白骨化した状態で発見された。一方、長男の捜索は難航を極めたが、4日後の9月10日発見された(『死体を科学する』では死蝋化していたとするが不詳)。一家の墓所は鎌倉円覚寺「松嶺院」にある。

坂本の死体は歯型から身元がわからぬようにと歯をツルハシで粉々に砕き、遺棄現場で景気付けに食べたタラバガニの殻と一緒にゴミ同然に埋められたと早川らは証言している。発見された坂本の頭蓋骨には大きな穴が開いていたという。

刺殺された村井を除き、実行犯全員に死刑判決が出た。

坂本の妻が遺体で発見された場所は、1995年(平成7年)9月6日、林道別又僧ヶ岳線の魚津市別又谷の上り口から数キロの地点であった[3]。発見場所[4]には遺族が木製の慰霊碑を建て、慰霊登山も執り行われている。[5]

初動捜査問題

失踪当初、坂本が所属していた「横浜法律事務所」等の関係者からは、オウム真理教の関与を指摘する声があったが、神奈川県警察は事件性は不明であるとの認識であった。これは、横浜法律事務所が労働問題(国労横浜人活弾圧事件[6]で県警が誤認逮捕)や日本共産党幹部宅盗聴事件において、警察側と対立していたため、横浜法律事務所の弁護士の訴えに対して必要以上に慎重な姿勢をとっていたのではないかとの疑念も残る。特に「国労横浜人活弾圧事件」は坂本が主に担当していた。ただでさえ反権力志向とされる在野法曹の中でも、特に日本共産党系とされる弁護士らは警察と対立する立場にあり、反共主義的な意識(これは日本の警察全てに共通する)が初動捜査の失敗につながったとされる論調があった。

一方、宗教団体が政治的に力を持つようになったことが警察を萎縮させたという指摘もあり、特にジャーナリストの溝口敦は、創価学会の政界進出のころから、宗教法人の不祥事があった際、それが明らかに違法行為となっても、司直の手が入らなくなったと指摘している。

そのため記者クラブにおいて、県警は「坂本は借金を抱えて失踪した」とか「(仕事で得た)大金を持ったまま逃げた」「(学生時代からか関わりのある)共産主義過激派の内ゲバに巻き込まれた」[2]などの事実無根の噂を新聞社数社に流している。しかも、それと同時に県警は「任意の失踪の可能性は五分五分」とリークしている[7]

1990年(平成2年)2月に神奈川県警察に「長男は長野県大町市日向山の山中に埋めてある」と書かれた内容の手紙と埋められている場所を示す手書きの地図の入った差出人不明の封書が届き[8]、神奈川県警察は長野県警察と合同で示した場所を捜索するものの発見できなかった。[9]

結局「再捜索」は1995年(平成7年)9月の坂本弁護士一家の遺体発見まで行われなかった[10]。実行犯の一人である岡﨑が自首をしたことで、事件の真相が明らかになった。

坂本が労働運動弁護を行っていたり、所属事務所が日本共産党に近いとみられていたことから、神奈川県警察が坂本を快く思っておらず、捜査も「手抜き」をしているという批判があった[11]。一方で、事件当時に横浜地検検事正であった佐藤道夫は「この批判は的外れ」とし、県警はオウムの関与は間違いないだろうと判断しており、事の性質上、捜査の方向や進捗状況を明らかにするわけにいかなかった。あの時点では家宅捜索なりを行うことも無理であったと述懐している[12]

TBSビデオ問題

テンプレート:Main 1989年(平成元年)10月26日東京放送(TBS)のテレビワイドショー番組『3時にあいましょう』が、当時社会問題化し始めていたオウム真理教問題について坂本堤へインタビューを行ったが、その情報を察知したオウム真理教幹部らが、TBSの千代田分室を訪れて抗議したことにより、坂本のインタビューの放送が中止された。さらに、この時にTBS側がオウム真理教幹部に収録したインタビューのビデオを見せ、この後、同年11月4日に坂本弁護士一家殺害事件が発生した。こうした経緯から、TBSは取材源の秘匿というジャーナリズムの原則に反しただけでなく、結果的に殺人幇助となり、一家失踪後もビデオをオウム真理教に見せたことを警察や弁護士会に伝えずにオウム真理教をかばい続けたと批判された。この影響により、『3時にあいましょう』の後継番組『スーパーワイド』の放送が打ち切られた。

不明点

この事件には多くの不明点がある。被害者の遺族の中には、「本当の命日を知りたい」という声がある[13]

  • 事件直前、坂本の自宅に対し「坂本さーん」と呼ぶ女性の声があったことや、その後で浴室からの水音を階下の住民(当時)が聞いているのに、事件が起きたとされる時間帯には全く物音がしていなかった事を、たまたまその時間に起きていた階下の住民は証言している。
  • 事件が起きた時には、坂本の自宅は施錠されていなかったことから、当時の緊迫した状況からは考えにくいとして、「坂本家に侵入したオウム信者とは別に、教団外の協力者がいたのではないか?」との疑いを持つ者もいる[14]
  • 坂本の自宅から茶碗が3つ消えている。
  • 「事件に関与した」とタクシー運転手を自称する者が、1994年(平成6年)頃に月刊誌『マルコポーロ』の編集部に現われた(証言の真偽は不明なまま)などの「謎」が取り沙汰されている。
  • オウム真理教広報の人物もこの事件に関与しているのではないかとされているが、本人は1995年(平成7年)5月の記者会見時「私には当日アリバイがあり、坂本弁護士が行方不明になった事は信者から聞きました」と主張したが、聞いたとされる日時が報道発表より4日も早い。
  • 坂本の自宅に落ちていた「プルシャ」と呼ばれるオウム真理教の徽章は、当時はオウム真理教幹部しか付けておらず、存在個数は数百個としていたが、「坂本一家・行方不明」の報道後は、教団広報の人物は大量生産を命じた後、横浜法律事務所側からの問い合わせに「プルシャのバッジは数万個単位で大量生産されているので分からない」と返答した[2]
  • 前述の通り、遺体がいずれも白骨化ないし死蝋化していたため、正確な死亡原因及び死亡日時の特定はほぼ不可能な状態となっていた。このため、オウムの弁護側からは一家の遺体であることの根拠に乏しいとの指摘も出たという(参照)。

その他

テンプレート:出典の明記

脚注

  1. オウム全公判終結(2011年11月) - 毎日jp
  2. 2.0 2.1 2.2 「オウム真理教追跡2200日」(江川紹子著 1995年)
  3. 初めに間違って僧ヶ岳と報道されたため、現在でも僧ヶ岳山中であるような報道や資料がある。
  4. 片貝地区民などが林業のために出入りするが危険であるため見学はお勧めしない。国土地理院 地図閲覧システム 2万5千分1地形図名:宇奈月
  5. 土地所有者の了解を得て、有志により脇に石造の慰霊碑も作られたが、2011年11月18日までに麓のキャンプ場へと移設された。これは積雪や落石で慰霊に危険が伴うという指摘があったため。テンプレート:Cite news
  6. 「横浜人材活用センター」に異動させられた国労組合員が抵抗運動を貫いたところ暴力事件を捏造されこれを口実に免職や停職の懲戒処分を受けた
  7. 江川紹子「全真相 坂本弁護士一家拉致・殺害事件」
  8. 後に実行犯である岡﨑が送ったことが判明。
  9. この時長男は捜索範囲の場所から、数メートル離れたところに埋まっていた。
  10. 「再捜索」は長野・新潟両県警察と警視庁が行っており、神奈川県警察は参加していない。
  11. 『オウム法廷6』(朝日新聞社 2000年)
  12. 佐藤『「不祥事続出警察」に告ぐ』(小学館文庫 2000年)
  13. 『都子 聞こえますか ―オウム坂本一家殺害事件・父親の手記―』(大山友之著、新潮社 2000年)』
  14. 『オウム帝国の正体』(一橋文哉著、新潮社 2000年)など
  15. 朝日新聞1998年10月24日朝刊

関連項目

外部リンク

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