コリン・パウエル

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コリン・ルーサー・パウエルColin Luther Powell, 1937年4月5日 - )は、アメリカ合衆国政治家。元軍人(退役陸軍大将)。ニューヨークサウス・ブロンクス地区出身。在米ジャマイカ人2世。学位は経営学修士称号イェシーヴァー大学名誉博士

軍人としての最終階級陸軍大将。政治家としての最高位はブッシュ政権第1期目の国務長官。軍人として輝いた栄誉には国防総省最高殊勲章、陸軍最高殊勲章、国防省第1等殊勲章、青銅章、多数の名誉負傷章、軍人殊勲章、勇猛戦士章、国防長官賞などがある。また、市民としては2度の大統領自由勲章、大統領国民栄誉賞、連邦議会栄誉賞、国務長官栄誉賞などがある。また日本国から勲一等旭日大綬章を受勲し、イギリス女王からバス勲章ナイト・コマンダー(KCB)に叙されている。

来歴

ニューヨーク市立大学シティカレッジで地学を専攻する傍ら、予備役将校訓練課程(ROTC)を受講した。1958年、ニューヨーク市立大学シティカレッジ卒業。2度のベトナム出征を経て、1971年にはジョージ・ワシントン大学大学院経営学修士課程修了(ベトナムでの従軍は、1962-63、1968-69)。

大学卒業後にアメリカ陸軍に入隊。1958年、陸軍少尉に任官。ドイツ勤務を経てベトナム戦争に従軍し、2度負傷した。ニクソン政権時代には「ホワイトハウス・フェロー」に選ばれた。レーガン政権では国家安全保障担当大統領補佐官1987年 - 1989年)を務め、ジョージ・H・W・ブッシュ政権では、アメリカ軍のトップである統合参謀本部議長(1989年 - 1993年)として、パナマ侵攻湾岸戦争を指揮。特に湾岸戦争は、ベトナム戦争と不況で傷ついたアメリカ軍の威信を回復させ、ニューヨークで凱旋パレードを受ける名誉を受けた。

1992年の大統領選挙では、支持率低迷にあえぐ共和党現職のブッシュ大統領副大統領候補として指名を模索したが、結局断念している。

バラク・オバマが大統領になった時は「アフリカ系アメリカ人の歴史を考えれば、非常に感動した」と涙を目に浮かべた[1]

国務長官職

1993年に退役後、自伝「マイ・アメリカン・ジャーニー」を出版した。1996年の大統領選挙に向けての世論調査では幅広い層からの圧倒的な支持を示し、もし出馬したなら当選は確実とも言われたが、「黒人が大統領になったら暗殺される」とする妻の反対もあり出馬しなかった。

2000年の大統領選挙ではジョージ・ウォーカー・ブッシュ陣営の外交問題アドバイザーを務めた。ブッシュの当選後、アフリカ系アメリカ人初の国務長官に任命された(上院では全会一致で承認)。同政権では、息子のマイク・パウエルが1997年11月から2005年1月までの間連邦通信委員会 (FCC) 委員長を務めた。国務副長官に任命されたレーガン政権からの盟友リチャード・アーミテージと共にブッシュ政権での穏健派を形成していた。2004年11月に国務長官辞任の意思を表明し、2005年に職を辞した。中道派で対国連協調路線であったため、有志連合指向の右派が主導する政権内での孤立が原因と考えられている。

国務長官在任時、国際連合安全保障理事会で「イラク大量破壊兵器を開発している証拠」を列挙した[2]。しかしCBS60 Minutesなどによると、イラクからドイツに出国した男性エージェントコードネームテンプレート:仮リンク」が永住権を得るためにドイツの情報機関に話した虚偽の話(例:生物兵器製造中に事故で12名が死亡した)をCIAが事実と誤認したものだった。長官退任後にパウエルはこの発言を間違いだったと認め[3]、「人生最大の恥」とまで述べている。イラク戦争そのものについても、開戦賛成のブッシュ大統領、ディック・チェイニー副大統領に対し、パウエルは最後まで反対だったとされている。

政治的立場

共和党員だがリベラルや中道にも理解を示すことがある。人工妊娠中絶積極的差別是正措置を容認[4]、合理的範囲の銃規制にも賛成している。著書「マイ・アメリカン・ジャーニー A case of the munchies」によると、ベトナム戦争の経験から軍隊の抑制的使用という意見を持つようになった。ただし、軍事力の行使は、やるからには国際的協調を得た上で圧倒的な規模で行うべきという意見である。

2004年イギリスジャック・ストロー外相との電話会談でネオコンのことを「狂った連中(fucking crazies)」と述べた[5]。2004年の共和党大会を欠席するなど、共和党内で台頭するネオコンと距離を置いているとされる。そのため反対派からは「ロックフェラー・リパブリカン」というレッテルを貼られることがある。

2008年アメリカ大統領選挙では、当初は静観していたが、一般投票2週間前の10月19日に、NBCの「ミート・ザ・プレス」に出演し、民主党候補バラク・オバマへの支持を表明した。声明では共和党候補のジョン・マケインへの不支持は容易な決断ではなかったとし、マケイン陣営のネガティブ・キャンペーンが行き過ぎであり、金融危機への対処能力においてオバマがマケインを上回ると述べた[6][7]。またマケインが経験の浅いサラ・ペイリンを副大統領候補に据えたことを無責任であるとした[8]。また、オバマがムスリム(イスラム教徒)の家系であり、オバマ自身もそうだと強調したことについては、「共和党の中にはオバマ議員がムスリムだという者がいる。正しい答えは、彼はキリスト教徒なので違う。彼はずっとキリスト教徒だった。だが、もっと正しい答え方は、『彼がそう(ムスリム)だとして、(それがどうした)』というものだ。この国ではムスリムであることがいけないのか。もちろん否だ、米国ではそんなことは問題ではない。7歳のムスリムの米国人たる子供が将来大統領になろうと思ったとして、一体どこに問題があるのか。」と言った。

一連のパウエル発言に、共和党内の右派は反発を示し、パウエルを「裏切り者」と一斉に批判。ディック・チェイニー元副大統領は、NBCテレビの番組収録でパウエルに離党を迫ったが、本人は同テレビの番組で一連の発言を撤回せず、逆にチェイニーを批判した。

2012年アメリカ合衆国大統領選挙では、10月25日、CBSテレビのインタビューで、再選を目指すオバマの支持を表明した[9]。政界引退後はテンプレート:仮リンクの社外取締役を務めている[10][11]

発言

「弱くてもささやかな幸せで満足する、つまり低いレベルの成功で満足することを望んではならない」、「だらだらしないで、たんぱく質をとり、もっと強くなりなさい」、「若者草食系にさせておく余裕は日本にはないはず。日本の若者には強くなってもらわないといけない。筋肉をきたえてもらわないといけない。たんぱく質をとり、訓練して力をつけてほしい。」などと述べ、日本の若者の弱さや草食化傾向に苦言を呈した[12]

著書

  • My American Journey, with Joseph E. Persico, (Random House, 1995). ISBN 0-67-943296-5
    • 同・ペーパーバック版(Ballantine Books,2003) ISBN 0-34-546641-1
    • 鈴木主税訳『マイ・アメリカン・ジャーニー コリン・パウエル自伝』角川書店, 1995年 ISBN 4-04-791236-0
      • 同・文庫版(少年・軍人時代編)角川書店、2001年 ISBN 4-04-287401-0
      • 同・文庫版(ワシントン時代編)角川書店, 2001年 ISBN 4-04-287402-9
      • 同・文庫版(統合参謀本部議長時代編)角川書店, 2001年 ISBN 4-04-287403-7
  • It Worked For Me, with Tony Koltz, (Haper Collins, 2012). ISBN 978-0062135124

脚注

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関連項目

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テンプレート:S-legal |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
フランク・カールッチ |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国国家安全保障問題担当
大統領補佐官

第16代:1987 – 1989 |style="width:30%"|次代:
ブレント・スコウクロフト テンプレート:S-off テンプレート:U.S. Secretary box テンプレート:S-mil |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
ウィリアム・J・クロウ (en) |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国統合参謀本部議長
第12代:1989 – 1993 |style="width:30%"|次代:
デヴィッド・E・ジェレマイア (en) テンプレート:S-ach |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
ミハイル・ゴルバチョフ |style="width:40%; text-align:center"|ロナルド・レーガン自由賞
1993 |style="width:30%"|次代:
イツハク・ラビン

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