ミヘイル・サアカシュヴィリ

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ミヘイル・サアカシュヴィリ
მიხეილ სააკაშვილი
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任期 2008年1月20日2013年11月17日
任期 2004年1月25日2007年11月25日

出生 テンプレート:生年月日と年齢
テンプレート:SSR1955トビリシ
政党 統一国民運動en:United National Movement

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配偶者 サンドラ・ルロフス

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署名 128px

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ミヘイル・サアカシュヴィリテンプレート:Lang-ka, Mikheil Saakashvili, 1967年12月21日 - )は、グルジア政治家2003年11月の無血革命では指導的役割を果たし、2004年1月4日に行われた選挙で第3代大統領(~2013年)に選出された。ミハイル・サーカシュヴィリ、あるいはサーカシビリ、サアカシビリ、サーカシュビリとも表記される。

経歴

出自

1967年ソビエト連邦グルジア共和国トビリシに生まれる。父は温泉療法を手がけた医師、母は歴史学者というインテリゲンツィヤの家庭に育つ。

1992年ウクライナキエフ国立大学国際法学部を卒業後、アメリカ合衆国に渡り、1994年コロンビア大学で法学修士号を取得。

政界入り

その後ニューヨークの法律事務所で勤務している間に政界入りの誘いを受け、同年12月、グルジア議会選挙でシェワルナゼ大統領の与党グルジア市民連合から出馬し当選。当選後は新選挙制度、独立した司法制度と警察を設立するための議会委員会の委員長となって、たちまちその名を知られるようになり、1997年の調査ではシェワルナゼ大統領についで2番目に人気のある人物にあげられた。

2000年10月12日、シェワルナゼ政権の法務相に就任。腐敗し、政治の影響力が強い刑事裁判と刑務所制度の改革を断行し、国際的に高い評価を受けたが、彼が腐敗していると告発するシェワルナゼ体制内の要人と対立することとなった。サアカシュヴィリは2001年9月5日に法務相を辞任すると、シェワルナゼ大統領が腐敗をただす意図を持っていないことを非難して反大統領の意思を明らかにした。

サアカシュヴィリは政府の腐敗に反対する人々を糾合するため、翌月新政党「統一国民運動」を結成し、その党首となった。彼ら野党勢力は、2003年11月2日に行われた議会の総選挙でシェワルナゼ政権が大規模な不正を行ったと宣言し、選挙のやり直しと大統領の辞任を求める大規模な集会を首都トビリシで行った。11月20日に始まり、10万人以上と呼ばれる人々を集めサアカシュヴィリが先頭に立った野党勢力は議会を占拠し、11月23日にシェワルナゼ大統領と交渉。シェワルナゼの提示した大統領選挙前倒しと議会選やり直しの提案を拒否し、大統領を辞任させた。 テンプレート:Main

大統領就任

ファイル:Amtseinführung Saakaschwili.jpg
2004年、サアカシュヴィリの大統領就任式

2003年11月26日ニノ・ブルジャナゼ暫定大統領を含む野党勢力はサアカシュヴィリを野党の統一大統領候補とすることを表明するが、最終的にはサアカシュヴィリを含め6人が大統領選に立候補した。2004年1月4日に行われた大統領選挙は当初、アブハジア自治共和国(グルジア自治区)などのボイコット宣言もあって選挙が有効となるか危ぶまれており、大統領選挙成立となる投票率50%を越えないのではないかとの危惧も存在していた。ところが開票されてみると、投票率88.97%、得票率96.27%[1]という、「民主的な選挙」としては驚異的な得票を得てサアカシュヴィリが圧勝する。サアカシュヴィリは同月25日、正式に大統領に就任した[2]。対独戦勝60周年記念式典の際には、バルト三国同様にグルジアもソ連崩壊後も同国に駐留し続けるロシア軍の撤退交渉で進展がなかったとして、ボイコットを決めた。

その後、野党デモをきっかけとした非常事態宣言(2007年11月7日)やデモを武力で排除するなど強権的な手法を行い[3]、国内外からの批判が強まった。バラ革命後も政情不安は改善せず、ロシアが平和維持としてアブハジアに軍を駐留するなど、ロシアとの外交関係は険悪化した。こうしたサアカシュヴィリの強行的な言論弾圧や政敵排除は、後ろ盾であるアメリカ合衆国などを始め、民主化の後退との印象を強めさせた。その後サアカシュヴィリは非常事態宣言を解除(11月16日)し、国民の不満を受けて次期大統領選の前倒しを宣言して立候補し当選した。

南オセチアへの侵攻

テンプレート:Main 2008年8月7日南オセチア自治州への派兵を行い、同日の記者会見で同地域の大半の制圧と州都・ツヒンヴァリの包囲を宣言した。これに対し同州の独立を後押しするロシアは強く反発し、同州に増援部隊を派遣するとともにトビリシへの空爆を実施し、南オセチア紛争が勃発した。サアカシュヴィリは8月9日に戦争の継続を15日間延長させる大統領令を発令、議会側の承認を同日得た。また、後述のイラク駐留・グルジア軍2000人を近日中に帰国させ、ロシアとの戦闘に備える旨も述べた。8月12日にロシアが軍事作戦を停止すると、これを受けてトビリシの議会前で数千人の支持者を前に演説し、「ロシアは我々をひざまずかせようとしたが出来なかった」と述べ、CIS脱退の意向を表明し、8月14日にこの提案を議会側が承認した。

紛争後、ロシアとの武力衝突を招いたことで多くの犠牲をもたらしたとして、サアカシュヴィリの責任を問う声が強くなった。サアカシュヴィリは2008年10月27日ラド・グルゲニゼ首相を解任し、代わってグリゴル・ムガロブリシビリを首相に任命したが、これは紛争に対する批判をかわすためだとする観測が出ている。同年11月7日には1万人以上の野党支持者による反政府デモが行われ、サアカシュヴィリの辞任と大統領選の早期実施を求めた。南オセチア紛争に関するサアカシュヴィリ自身の発言も変化し、紛争時に行っていた「先に軍事行動を開始したのはロシア側だ」という主張を翻し、同年11月28日にグルジア側の方が先に軍事行動を開始していたことを認めた。同年12月5日には、国防相、外相、国家安全保障会議書記を更迭し、自らの責任回避に腐心している。

国民の支持

南オセチア紛争以降、サアカシュヴィリは苦しい立場に置かれていると見られていた。2010年5月に行われた軍事パレードでは「帝国(ロシアを指す)は再び我々の独立を脅かしている。断固戦うのだ」と述べ、強気の姿勢を見せたが、市民たちの反応が概ね冷ややかであったことからも、サアカシュヴィリ政権が多くの民から支持されていないと思われていた。また、アメリカはオバマ政権の発足後米露関係を修復する動きに転じ、オバマがグルジアを軽視する姿勢を見せていることが、サアカシュヴィリの立場を更に苦しいものにしていると思われていた[4]。ところが2010年5月30日の統一地方選挙では、サアカシュヴィリの与党「統一国民運動」が他を引き離して勝利した。盟友であったウクライナなどが親ロシア派に転換した中で、「反ロシア」を掲げて孤軍奮闘するサアカシュヴィリに対するグルジア国民の根強い支持が浮彫りとなった[5]

今後の政局運営について、サアカシュヴィリは現行の大統領制から議院内閣制への移行を提案し、2008年の議会選で統一国民運動が圧勝していることから2010年秋の憲法改正案の議会上程・成立を構想していた(現行憲法では大統領任期が1期5年で3選出馬が禁じられているため、2013年にサアカシュヴィリは大統領を退任しなければならない)。しかし一向に改善しない国内経済や、頓挫したままのNATO加盟交渉を始めとして親欧米外交の不調などから次第に支持率は下降していった。

権力の低下

2012年10月1日、総選挙で統一国民運動は野党連合「グルジアの夢」に過半数を奪われ、親サアカシュヴィリ派政権は内閣総辞職に追い込まれた[6]。大統領として「グルジアの夢」派のビジナ・イヴァニシュヴィリ議員による内閣を承認する結果となり、表面的にはNATO交渉の継続決定など両者の友好と自身の中立性をアピールしたが、サアカシュヴィリの政治的影響力は明確に低下した[7]

イヴァニシュヴィリ首相は就任するにあたって、サアカシュヴィリが私物化していた大統領官邸からの立ち退きを要請した[8]。これに対してサアカシュヴィリは報道官を通じて「大統領官邸は大領領の私物だ」と反論した[9]。これに対してイヴァニシュヴィリ首相は自ら得た私財でなく、国民の税金で賄った「私邸」に住む事は「厳しい経済情勢下で行われる非倫理的行為である」として官舎への移住を提案した[10]

2012年10月23日、イヴァニシュヴィリ政権が本格的に始動すると統一国民運動体制下での様々な不法行為についての政府調査委員会が設立され、ダヴィッド・ウスパシュヴィリ国会議長が委員長に着任した[11]。イヴァニシュヴィリ首相は統一国民運動が関与した様々な非合法行為(汚職言論弾圧拷問等)について真相を明らかにすると宣言した[12]。11月22日に政府調査委員会は「場合によっては(統一国民運動の実質的指導者である)サアカシュヴィリ大統領の逮捕も有りえる」とコメントした[13]。サアカシュヴィリの側近は大統領が逮捕に怯え、少なくとも大統領任期中は逮捕は出来ないにも関わらず周囲に「逮捕される」と繰り返すなど、再びノイローゼ状態に陥っていると証言した[14]

2013年4月12日、イヴァニシュヴィリ首相は棚上げされていた南オセチア紛争の開戦経緯についても正式な調査を行う事を決定し、既に国防相による軍内調査が開始され、イヴァニシュヴィリ政権は必要に応じてサアカシュヴィリ大統領を重要参考人として尋問すると表明した[15]

2013年10月27日に執行された大統領選挙では、テンプレート:仮リンク前国会議長を擁立したが親露派のギオルギ・マルグベラシビリ前第1副首相に敗れた[16]。11月17日をもって大統領を退任[17]

退任後

2013年12月には、ウクライナで発生した大規模反政府デモに連帯表明するために姿を見せた[18]

政策

新保守主義新自由主義者であり、サアカシュヴィリ政権では外国資本の積極的な導入が試みられた。世界銀行による世界各国の「対事業・好意度」の度合いを測定する世論調査でグルジアは、2005年の112番目から、2008年には15番目へと急上昇した。2007年、経済に対する直接投資は国民総生産のおよそ20パーセントにものぼった。しかし、国際的な金融危機の到来でそうした投資が枯渇することにより、経済崩壊がひき起こされた。2008年の最終四半期、経済成長は2007年の7パーセント以上から2パーセントへと下落した。

強硬なグルジア民族主義者として知られ(反対派から『グルジアのジリノフスキー』と揶揄されることも)、グルジアの領土統一を目指して大統領就任後、ロシア寄りであったアジャリア自治共和国との国境を軍を使って封鎖し、武力侵攻も辞さないとの立場を示し、アバシーゼ大統領を力づくでロシアに強制亡命させ同地域を平定した。また、同じく親露派のアブハジアと南オセチアの分離独立・北オセチアとの統一問題で、ロシアに対して抵抗する姿勢を示し、アブハジアからのロシア軍即時撤退を求めている。

ロシア覇権主義に対しては就任以来一貫して激しく批判しており、ロシアを牽制するため欧米諸国や日本イスラエルとの関係を強化した。米英主導によるイラク戦争が勃発すると同戦争を支持し、軍を派遣した。イラクには2008年3月の時点で2000人のグルジア兵が派遣されているが、これは同戦争を主導した米英両国を例外とすれば、最も多くの兵士が派遣されていることになる。また、イスラエルとは軍事、諜報面などで緊密な協力関係にある。

またサアカシュヴィリの親米・反露路線でアメリカの一極支配への反抗の新冷戦が顕著になった。

日本との関係

2006年9月安倍晋三中華人民共和国やロシアを牽制する価値観外交を掲げ、内閣総理大臣に就任すると関係は急速に深まり、2007年3月7日から3月11日にわたり来日している。首脳会談の中でサアカシュヴィリは、上記の価値観外交に賛意を示すと共に、日本の国連安保理常任理事国入りへの支持も表明した[19]

その他

  • テレビカメラの前でネクタイを噛むといった奇行を行っている。この行動に対して、ロシアのウラジーミル・プーチン首相に「夕食を食べるならネクタイを外したほうが良いのでは」と皮肉られている[20]
  • 2010年6月、4月のポーランド空軍Tu-154墜落事故を教訓に自身の政府専用機に緊急脱出装置(1人用)を約700万ドル(約6億3000万円)かけて設置したと報じられ、野党からは予算の無駄遣いと批判されている。ロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダは「最も勇敢な大統領が臆面(おくめん)もなくおびえて再び国民を驚かせた」などと皮肉った。同紙によると、「既存の機体に脱出用の穴を開ける改修をすれば、かえって墜落の危険度は増す」と指摘する航空専門家もいるという。

ミヘイル・サアカシュヴィリを演じた俳優

脚注

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関連項目

外部リンク

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ニノ・ブルジャナゼ
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第3代:2004 - 2007 |style="width:30%"|次代:
ニノ・ブルジャナゼ
(暫定)

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  1. 外務報道官談話・グルジア大統領選挙について 外務省、2004年1月16日。
  2. ちなみに、トルクメニスタンでは1990年10月の大統領選挙で、トルクメン共産党第一書記であったサパルムラト・ニヤゾフが98.3%(公式発表)の圧倒的な得票を得て当選。また、同じくベラルーシでは2006年3月の大統領選挙で現職のアレクサンドル・ルカシェンコが82.6%(公式発表)の得票を得て再選されている。
  3. テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Citenews
  5. テンプレート:Citenews
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  15. グルジア:ロシアとの軍事衝突、真相究明へ 毎日新聞(2013年4月12日)
  16. テンプレート:Cite news
  17. テンプレート:Cite news
  18. 全ウクライナ連合「祖国」公式サイトより
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Citenews
  21. Movie star plays Georgian leader