グルジア

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グルジア
საქართველო
グルジアの国旗 グルジアの国章
国旗国章
</dd>

国の標語:ძალა ერთობაშია
(グルジア語:力を一つに)
国歌自由
グルジアの位置

公用語 グルジア語
首都 トビリシ
最大の都市 トビリシ
政府

大統領 ギオルギ・マルグベラシビリ
首相 イラクリ・ガリバシヴィリ

面積

総計 69,700km2118位
水面積率 極僅か

人口

総計(2008年 4,260,000人(113位
人口密度 67人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年190億[1]ラリ
</dd>
GDP(MER

合計(2008年128億[1]ドル(63位
</dd>
GDP(PPP

合計(2008年213億ドル(120位
1人あたり 4,862ドル
</dd>
独立

ソビエト連邦より1991年4月9日

</dl>

通貨 ラリGEL
時間帯 UTC +4(DST:なし)
ISO 3166-1 GE / GEO
ccTLD .ge
国際電話番号 995

</dd>

アブハジアと南オセチアを抜いた人口(2012年)は4,054,382人、面積57,200km²、人口密度70人/km²となる。
</dl> グルジアは、西アジア北端、南コーカサス地方に位置する共和制国家。旧ソビエト連邦の構成国のひとつで、1991年に独立した。首都はトビリシ東ヨーロッパに含められることもある。南オセチアアブハジアが独立状態となっており、ロシアなど一部の国から承認を受けている。

コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコアルメニアアゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。

ソビエト連邦の政治家、ヨシフ・スターリン出身地でもある。

ウクライナの主導で発足したGUAMにも加盟している。

国名

1995年以来、英語名はジョージアGeorgia (/ˈdʒɔrdʒə/)、日本語ではグルジアと表記されるが、2012年現在、同国政府は「ジョージア」への表記変更を日本政府に求めている。独立直前の1990年から1995年までは「グルジア共和国」を正式な国名としていた。

グルジア語では、საქართველოサカルトヴェロラテン文字転写 : Sakartvelo)という。サカルトヴェロとは「カルトヴェリ人(グルジア人)の国」という意味で、カルトヴェリは古代ギリシャ人の記録にもあらわれる古代からの民族名カルトリに由来する言葉である。

日本語名として使われる「グルジア」はロシア語名(グルーズィヤ)にもとづいており、これは英語名のGeorgiaと同じく、キリスト教国であるグルジアの守護聖人、聖ゲオルギウスの名に由来すると推定されている。

なおグルジアを意味する英語やフランス語のGéorgieなどは、グルジアのほかにアメリカ合衆国ジョージア州とスペルおよび発音も同一である。

2009年3月、グルジア政府は、日本語における同国の国名表記を現在のロシア語表記から英語表記に基づく「ジョージア」への変更を要請した[2][3][4]

漢字表記には、具琉耳と喬治亜がある。

歴史

テンプレート:Main テンプレート:節stub

古代

テンプレート:Main

グルジアは西アジアの北端にあることから古い歴史があり、ホモ・ゲオルギクスの化石が発掘されたことからユーラシアの人類拡散に役割を担ったと言われている。グルジアワインは世界最古のぶどうワインとされる。

アケメネス朝ペルシャ支配期

紀元前6世紀にはオリエントを統一したアケメネス朝ペルシャの一部となった。ローマ時代以前は、主に西グルジアにある古代コルキス王国(グルジア語კოლხეთი、ラテン語転写:Colchis、Egrisi王国)が栄えていた。

ローマ支配期

テンプレート:Seealso

紀元前1世紀にローマの支配に入ると、東グルジアにカフカスのテンプレート:仮リンクグルジア語იბერია、ラテン語転写:Iberia、テンプレート:仮リンク)が勃興し始め、グルジアは、西グルジアと東グルジアに分けられるようになり、グルジア史の主役をイベリア王国がしばらく務めることになる。

4 - 6世紀にキリスト教に改宗。

東ローマ・サーサーン朝の征服

6世紀頃に、この頃テンプレート:仮リンクとして知られていた古代コルキス王国(この間ずっとEgrisi王国が正式名らしい)は東ローマ治下に、イベリア王国はペルシャ支配下となり、東西で対立関係になる(en:Lazic War)。

627年から629年にかけてペルシャ・イベリア王国連合軍と西突厥東ローマ帝国・古代コルキス王国連合軍との間でテンプレート:仮リンクが行なわれた。

ムスリムの征服

テンプレート:仮リンクによってテンプレート:仮リンク736年-1080年)が誕生した。グルジア全域はテンプレート:仮リンク(853年-1120年)に入る。ラジカ王国は、9世紀にアブハジア人を主体としてテンプレート:仮リンク780年-1008年)として独立した。813年にイベリア王国も、テンプレート:仮リンクによってアラブより解放されテンプレート:仮リンク813年-1008年)として独立した。

セルジューク朝の征服

1071年マラズギルトの戦い1072年から1080年にかけてセルジューク朝に攻められた。このとき、東隣のカヘティにも勢力が及び、Aghsartan Iがセルジューク朝に降伏し、属国となった。

グルジア王国

1089年頃、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクen:Principate of Iberiaテンプレート:仮リンクが統一されテンプレート:仮リンク978年-1466年)となる。

東ローマの再征服

後に東ローマ帝国の属国になる。長い間東ローマ帝国の一部であり、文化的にもその影響が大きい。

グルジア王国の再独立

12世紀から13世紀にかけてタマル女王のもとセルジューク勢力を駆逐しザカフカス全域に膨張、最大領域となった。

モンゴル帝国の征服

テンプレート:Main

モンゴル帝国ティムール朝黒羊朝の支配を経る。

1259年テンプレート:仮リンク1260年-1810年)が誕生。

無政府期

テンプレート:Seealso 1466年にグルジア王国が滅亡し、無政府状態となった。

1465年テンプレート:仮リンク1465年-1762年)が誕生。 1484年テンプレート:仮リンク1484年-1762年)が誕生。

サファヴィー朝の征服

1540年から1553年にかけて、サファヴィー朝タフマースブ1世が侵攻、占領され、サファヴィー朝の支配を経る。

オスマン帝国の征服

1578年オスマン帝国の支配(en:Eyalet of Childir)を経る。 テンプレート:Main

カルトリ・カヘティ王国

1762年、カルトリ地方のテンプレート:仮リンクカヘティ地方テンプレート:仮リンク1465年-1762年)が統一されテンプレート:仮リンク1762年1798年)となった。

露土戦争1768年-1774年)にテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクロシア帝国側に参戦。

ロシア帝国時代

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1783年テンプレート:仮リンクが締結され、グルジア東部はロシア帝国の保護領となった。1795年ガージャール朝ペルシアアーガー・モハンマド・シャートビリシに侵攻して町を焼き払った(en:Persian Expedition of 1796)。Erekle IIの死後、グルジアで内戦が起こり、ロシアの調停が求められた。1801年1月8日パーヴェル1世が保護領カルトリ・カヘティのロシアへの併合に調印し、9月12日アレクサンドル1世が実施した。

1825年デカブリストの乱や、1830年11月蜂起に影響を受け、1832年12月10日にグルジアの貴族がロシア高官の粛正を謀ったが、発覚して失敗に終わった。1841年en:1841 rebellion in Guria

コーカサス戦争ではトビリシを拠点に、ロシア帝国が北カフカスを攻略した。

ロシア帝国からの独立とソ連への加盟、ソ連時代

ロシア革命後の1918年5月26日グルジア民主共和国はロシアからの独立を宣言するが、1921年赤軍テンプレート:仮リンクでは首都を制圧され崩壊した。1922年グルジア問題では、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクらグルジアの穏健派共産主義政権が失脚し、ザカフカース・ソビエト連邦社会主義共和国の構成国となり、ソビエト連邦に加盟した。1936年には、ソ連邦構成共和国(グルジア・ソビエト社会主義共和国)に昇格する。冷戦下に耐えられるソ連を目指すため、民族問題が取り上げられることはなかった。またスターリンの故郷という側面もあり、かつては共産党員の割合が最も高かった。

テンプレート:Main

ソ連からの独立

1989年東西冷戦が終結しソ連のペレストロイカ路線が行き詰まりを見せると、ソ連地上軍が反ソ運動を弾圧したテンプレート:仮リンクを大きな転機として、ソ連後期からは抑えられていた民族的な問題が表面化した。1990年11月、グルジア・ソビエト社会主義共和国はグルジア共和国に改名され、1991年4月9日に独立宣言を行い、5月にはズヴィアド・ガムサフルディアが大統領に選出された。これは同年末のソ連邦の解体により実効性を持つに至った。独立後も多くの閣僚はソ連旧共産党員であったことや強権的な統治が行われたために、政局不安は改善されず治安も悪化し内戦状態に至った。アブハジアアブハジア紛争テンプレート:仮リンク)や南オセチア南オセチア紛争 (2008年))やアジャリア自治共和国en:2004 Adjara crisis)では分離独立運動が起き、事実上、独立した状態となっている。

シェワルナゼ政権

ガムサフルディアは1992年1月にクーデターにより追放され、1992年から2003年まで、エドゥアルド・シェワルナゼが最高権力者であった。1992年7月31日に国連に加盟した。

バラ革命

2003年11月2日の議会選挙の開票には出口調査などによって不正の疑惑が指摘され、アメリカが非難を表明していたが、11月22日になって、選挙に基く新しい議会が召集された。これに対し、反対派の議員はボイコットした。議会前には25000人の反対派市民が集結していたが、開会の辞を読み上げられる最中、これらの市民は議場に乱入した。シェワルナゼ大統領は議会から逃亡し、11月23日には大統領を辞任した。代って、野党「ブルジャナゼ・民主主義者」の党首であるニノ・ブルジャナゼが暫定大統領に就任した。ブルジャナゼ暫定大統領は、従来の閣僚(ナルチェマシュヴィリ内相、ジョルベナゼ国務相、ゴジャシュヴィリ財務相、メナガリシュヴィリ外相など)を一掃した。 テンプレート:Main

サアカシュヴィリ政権

旧野党勢力は、2004年1月4日に行われた大統領選挙では、野党「国民運動」のミヘイル・サアカシュヴィリ党首を統一候補として擁立した。しかし、「労働党」のナテラシュヴィリ党首が議会選挙のやり直しに反対し、「伝統主義者連盟」が離脱を表明するなどの動きもあった。ロシアを後盾にアジャリア自治共和国を事実上中央政府から独立して支配してきたアスラン・アバシゼ最高会議議長が非常事態宣言を発令し、暫定政権に反対するなどの動きを見せた。結局、大統領選挙の結果はミヘイル・サアカシュヴィリの圧勝に終わった。これに反対する野党勢力も一転して選挙結果を受容れ、アバシゼ議長は反対し続けたが、5月には最終的にロシアへ亡命し一連の混乱も収拾した。

3月28日に議会再選挙が行われた。結果は、国民運動が得票率75%で大多数の議席を獲得し最大与党に躍進した。一方、その他に議席獲得に必要な7%の得票率を超えられたのは新右派産業党が連合して結成された右派野党だけであった。今回の選挙は独立後のグルジアで最も自由な選挙のうちの1つだったと考えられる。

2007年11月に与党サアカシュヴィリ政権に対する野党デモの鎮圧を期にグルジア全土で非常事態宣言が発令されるなど政情不安は続き、これに対するサアカシュヴィリ政権の強硬政策はグルジアにおける民主主義の後退を位置付けるものとなった。

ロシア-グルジア戦争

2008年8月、南オセチア州を巡りグルジアとロシアの間において紛争が勃発。 テンプレート:Main テンプレート:See also この紛争によってサアカシュヴィリの権力は強まると思われたが、逆に多くの戦死者を出して批判され後に紛争を「グルジアから仕掛けた」と発言するに及び、彼の求心力は弱まっている。

2009年4月9日、首都トビリシで、サアカシュヴィリ大統領に辞任を要求して、大規模な反政府集会が議会前広場で主要野党(民主運動・統一グルジアなど)によって開かれた。その集会には、6万人に上る市民が集結した。要求の背景は、大統領の権力集中への批判とロシアとの軍事衝突を回避できなかった責任の追及などがあげられている。なお、グルジアが求めていた北大西洋条約機構(NATO) 加盟は現在棚上げされている。

2009年5月5日に軍部によるクーデター未遂事件が発生し、グルジア軍の高級将校ら数人が拘束された。グルジアはクーデター勢力がロシアの支援を受けていたと非難している。

サアカシュヴィリ政権の終焉

2012年10月の選挙の結果、ロシアとの関係改善を目指す野党連合「テンプレート:仮リンク」が勝利し、同連合代表で実業家のビジナ・イヴァニシヴィリが首相に指名された。そして、2013年10月27日に行われた大統領選挙で、「グルジアの夢」が推薦したギオルギ・マルグヴェラシヴィリ候補が圧勝し、サアカシュヴィリ大統領の後継者のテンプレート:仮リンク候補は惨敗した。[5]

これにより、強固な反露・親欧米政策を推し進めてきたサアカシュヴィリ体制は終焉を迎えたが、現在でもEU・NATO加盟を目指す方向性は変わっていない。

政治

グルジアは共和制で、国家元首大統領である。1995年12月8日から2004年2月17日までの間、首相の規定は無く大統領が政府を組織していた。ただし、首相に相当するものとして国務大臣が設置されていた。大統領は首相その他の大臣の任命・指名に関して議会の同意を得る必要がある。2010年に憲法改正が行われ、2013年10月より大統領ではなく首相が権限を握る議院内閣制に移行した。

議会は一院制で、任期4年(定数235名)。その内、150議席が比例代表制で、85議席が小選挙区制である。なお、議会は行政官庁が集中する首都トビリシではなく、西部の古都クタイシに置かれている。

州知事と大都市の市長は、大統領による任命制である。

国際関係

テンプレート:Main サアカシビリ体制では強硬的な反露親米、親イスラエル路線を一貫してとり続けてきた。

ロシアとの対立

ソ連崩壊以降、グルジアは一貫して隣国ロシアと距離を置き、欧米との関係強化を打ち出してきた。この路線は2004年に成立したサアカシュヴィリ政権下で一層に高まり、軍事的には2008年のNATOEUへの加盟推進、ロシア語からグルジア語への移行推進と英語教育の義務化、ソ連時代のみならずロシア帝国時代にまで遡っての「抗露運動の歴史」を教える記念館の建設、同じ路線をとるウクライナポーランドバルト三国との連携など、露骨な反露路線・民族主義路線を歩んで来ている。また対露強硬派で知られるアメリカのネオコンとの協力も深めているとされる。実際、ネオコンに近いとされるアメリカ人ランディ・シェーネマン(Randy Scheunemann)がサアカシュヴィリの外交顧問を務めている。またサアカシュヴィリ政権は、ロシア軍に対抗するべくロシア製兵器から、グルジア軍のNATO側兵器による近代化やアメリカ軍やイスラエル国防軍などとの共同軍事訓練を行うなど大幅な軍拡を進めていたが、軍事評論家の江畑謙介は予算に無理のある計画だと評している[6]

一方、ロシアにとってグルジアはカスピ海産原油パイプラインの存在等、中央アジア原油を確保する上で密接な関わりがあり、南の玄関口である黒海へ連なる要衝に位置する重要な国家と位置づけている。またチェチェンとの対立を抱えるロシアにとって、チェチェンの周辺国の一角を成すグルジアと手を結ぶ事は、ロシア南部における安全保障の観点からも非常に有効と見ている。しかしグルジアの反ロシア路線は当然ながら両国間の緊張関係を生む事になり、両国関係は急速に悪化している。ソ連時代以降、ロシアとグルジアは密接な関係にあり、多くのグルジア国民もロシアに在住しているが、両国の関係が悪化したため、ロシアから強制退去になったり、親族間で引き裂かれるなど様々な問題が起きている。

アメリカ合衆国では新保守主義者が政権から退陣し対露協調路線を取るバラク・オバマ政権が誕生、さらにウクライナでは親露派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチ大統領の誕生、など周辺諸国の情勢が変化しつつある中で、今後、グルジアの反露路線にどのように影響を与えるかが注目されている。

民族問題

こうした流れに加えて、グルジア国内の民族問題も両国の対立に拍車を掛けている。コーカサス地方は古くから無数の民族が入り乱れる不安定な地域であり、近代に成立したに過ぎないグルジア人という民族意識は未だ不安定で、グルジア国民の間でも地方対立が絶えない状況下にある。現時点でアブハズ人アブハジア)、オセット人南オセチア)、イスラム教徒のグルジア人(アジャリア)、アルメニア人ジャワヘティア)、ミングレリア人(ミングレリア)、アゼルバイジャン人チェチェン人など多数の非グルジア民族を国内に抱えている[7]。グルジア政府の反露政策はグルジア民族主義と密接に結びついており[8]、これらの地方民族への弾圧が強まっている[9]。これらの国の中には言語の保護など多民族共生の向きが強いロシアの庇護を受ける事で自民族の文化を守ろうとする動きがあり、ロシアもグルジアへの牽制から積極的に支援する立場にある。とりわけ南オセチアでは、北オセチアを統治するロシアへの併合を求める運動が活発化している(ただしロシア政府は南オセチアの併合は望まないとしている)。対するグルジアは自民族中心主義(エスノセントリズム)・反ロシア路線の双方から一連の動きに激しく反発している。

2006年9月27日・28日には、グルジア国内に駐在していたロシア軍将校6名をグルジア軍がスパイ容疑で拘束する事態が発生、ロシア政府が抗議としてグルジアに対するビザ発給停止や国境線の封鎖等の報復を取る事態が発生している。更に2008年にはグルジア軍が南オセチアに展開するロシア軍主体の停戦監視部隊に攻撃を仕掛け、兵器を強奪する行為を起こした。グルジア政府は「ロシア軍の停戦部隊は独立派を支援しており公平ではなく、EU部隊との交代を行うべき」と発言しているが、ロシア軍駐留に関しては当のEU側も賛同する意向を示している。

2008年の南オセチア紛争(ロシア-グルジア戦争)

テンプレート:Main 2008年8月7日、グルジア政府は南オセチア自治政府に対して自治権を剥奪すると共に軍部隊を侵攻させた。しかし南オセチア側に立って参戦したロシア軍の前に、軍拡を進めていたグルジア軍は一方的な敗北を喫して敗退し、8月15日に停戦が決定した。ロシア政府は戦いに従軍した兵士の内、5名に英雄勲章を授与した。

停戦後、ロシアはグルジア国内に駐屯しつつ、議会でアブハジアと南オセチアの独立を承認する決議案を採択、メドベージェフ大統領がこれを正式に了承した。グルジア側はこれに抗議する形で2008年8月28日、議会にてロシアとの外交関係を断絶するよう求める決議を全会一致で採択した。8月29日、バシャゼ外務次官はロシアのアブハジア自治共和国と南オセチア自治州の独立承認に対しロシアとの外交関係を断絶すると発表した。

日本との関係

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軍事

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地方行政区分と主要都市

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ファイル:Georgia high detail map.png
中央政府の支配が及んでいない「アブハジア共和国」(緑色)と「南オセチア共和国」(紫色)

行政区画は、二つの自治共和国(アブハジア、アチャラ)を含む11の地方(レギオニ)からなり、さらに66の地域(ライオニ)に分かれる[10]。 国内には、北西部にアブハジア(首都: スフミ)、南西部にアジャリア(首都: バトゥミ)の二つの自治共和国があるが、アブハジアはグルジア政府の統制は及んでおらず、事実上、独立した状態となっている。また、シダカルトリ地区とその周辺は歴史的に南オセチアといわれるオセット人多住地域で、ソビエト連邦に属したグルジア・ソビエト社会主義共和国時代にはシダカルトリ地区北半とその周辺を領域とする「南オセチア自治州」が置かれていたがソ連邦解体による独立後は消滅。1992年のオセチア紛争以降、オセット人が自治権を要求して中央政府非公認で再び「南オセチア自治州」を樹立した。同自治州が独立の意向を明確にした後は「南オセチア共和国」(首都: ツヒンヴァリ)と名乗っており、アブハジアと同様に一部の地域を除いてグルジア政府の統制は及んでいない。

地理

ファイル:Gg-map-ja.png
グルジアの地図。

東経40~47度、北緯41~44度に位置するグルジアは、コーカサス山脈を中心に国土の大部分が山岳地帯である。最高峰はシュハラ山(標高5201m)。200km離れたカズベギ山(標高5074m)が第2の高山で、唯一の火山である。この間に2,100もの氷河がある。コーカサス山脈に沿ってロシア連邦と723kmの国境を接し、クラスノダル地方カラチャイ・チェルケス共和国カバルダ・バルカル共和国北オセチア共和国イングーシ共和国チェチェン共和国などロシアの民族共和国と接する。そのためグルジアは古くから紛争の影響を受けやすく、アブハジア自治共和国南オセチア自治州、パンキシ渓谷など中央政府の支配権の及ばない地域がある。特にチェチェン共和国と接するパンキシ渓谷を中心に、チェチェンゲリラの巣窟となっているなど問題がある。

グルジアは中部のリヒ山脈によって東西に分けられ、東部は歴史的にイベリアと呼ばれた一方、西部はコルキスと呼ばれていた。また山脈は、北部地域のスヴァネティを分けている。またこれらの山脈を源としてリオニ川クラ川(ムトゥクヴァリ)などの主要な河川がある。クラ川の源流域やチョロフ川の流れる一帯が歴史的な西南グルジア(メスヘティ)であり、統一王朝発祥の地として知られる。クラ河岸に古都ムツヘタ、現首都トビリシなど、東グルジアの諸都市が発展した。

アブハジアにあるボロニア洞窟は世界で最も深く、深度2140mに達する。

気候

山岳地帯が多いため、国土面積の割りに気候は多様である。標高5000mを超えるカフカス山脈がロシアからの寒気団を遮断する役割を担っているため、国土の大半は比較的温暖で、ケッペンの気候区分温暖湿潤気候に属する。黒海沿岸部は最も温暖で、その気候を生かしたグルジアワインの生産地として有名である。山岳地帯は多雨地帯で、降水量は4000mm以上、冬場の積雪は2mに達する。首都トビリシなどが位置する東部はより大陸性気候に近くなり、年間降水量は400–1,600 mm程度と、西部に比べると比較的乾燥していて、冬の寒さはより厳しくなる。

経済

グルジア経済は伝統的に、黒海観光、柑橘類ブドウの生産を中心としてきた。ソビエト連邦時代には黒海沿岸は有数の保養地になり、観光業が盛んだった。また、ブドウなどを利用してワインコニャック製造などの食品加工業。マンガンの採鉱と、これに付随して金属、機械類、化学薬品や織物を生産する工業部門も発達していた。

ファイル:Baku pipelines.svg
BTCパイプラインと南コーカサスガスパイプライン

独立前後からの内戦などの混乱により経済は壊滅的な打撃を受け、国内総生産(GDP)は1994年には1991年の34.9%にまで低下したが、IMF世界銀行の支援の元で市場経済の導入が進められ、1995年以来GDPは増加に転じ、一方でインフレを抑制し本質的な経済収益を得た。しかしグルジア経済は、徴税の失敗により大幅な財政赤字を経験し続けた。さらにエネルギー不足に苦しんだため、1998年配電事業を民営化し、これによりエネルギー事情は確実な改善が見られた。政府は長期的な経済回復に対する望みを、ポチバトゥミなどの重要な港湾を通る国際的な輸送回廊の開発にかけている。膨らむ貿易赤字、腐敗の問題や不安定な政治状況は、経済情勢を短期的に不透明にさせている。しかしながら、復活した投資は、2000年に、経済成長に恐らく6%以内の拍車をかけたと思われる。サーカシビリ政権誕生後は、新自由主義政策を政策の柱に掲げる。2008年以降のロシアとの軍事衝突以降、ロシアという巨大な市場を失った影響で経済的には停滞したままである。

自国内で供給できるエネルギーは殆どが水力発電のみで、天然ガス石油を含むエネルギーの大部分はアゼルバイジャンから輸入する。

グルジアはアゼルバイジャンにとって原油と天然ガスの重要な輸出ルートである。バクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン(BTCパイプライン)及び並走するテンプレート:仮リンクを通って大量の原油がトルコ地中海沿岸に達し欧州へ輸出される。また、グルジアへの原油供給パイプラインには他にテンプレート:仮リンクがあり、スプサにはアゼルバイジャンが黒海から輸出する基地がある。 テンプレート:Clearleft

国民

テンプレート:Bar box 住民の多くはカルトヴェリ人(グルジア人、正教徒)(83.8%)である。その他アルメニア人ロシア人アゼルバイジャン人オセチア人アブハジア人ギリシャ人などがいる。ギリシャ人には、元々アナトリア黒海沿岸地域に居住し、20世紀初頭のトルコ革命に伴う混乱時に隣国グルジアへ避難してきたポントス人などが含まれる。また、アジャリア自治共和国テンプレート:仮リンクなど、イスラムを信仰しているグルジア人も存在する。

言語は公用語がグルジア語(71%)である。その他ロシア語(9%)、アルメニア語(7%)、アゼルバイジャン語(6%)なども使われている。

宗教は、正教会の一員であるグルジア正教徒が75パーセント、イスラム教徒が11パーセント。

文化

ワイン

葡萄の産地で、ワイン発祥の地である[11]。セミスイートの赤ワイン、フヴァンチカラ(Khvanchkara)は「甘口ワインの真珠」として著名なワインで、楊貴妃クレオパトラといった古代文明の王族、歴代ロシア皇帝や、ソビエト社会主義共和国連邦共産党幹部が愛飲していた。スパークリングワインは、ツクリアラ(Cqriala)と呼ばれる。フヴァンチカラ(セミスイート赤ワイン)のツクリアラ(スパークリングワイン)もあり、希少性が高い。キャビアと合わせることで知られるフランスのシャンパーニュのなかでも著名な、ルイ・ロデレール社のクリスタルは、ロシア皇帝アレクサンドル2世のために造られたが、ボトルの形状がよく似たゴールデンというツクリアラ(スパークリングワイン)がグルジアに存在する。グルジアワインはクレオパトラチャーチル首相にも愛された。2006年以来、ロシア連邦はグルジアとモルドバへの経済制裁の一環としてグルジアワインを輸入を禁止していた(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)が、2013年にイヴァニシヴィリ政権の成立に伴い解除された。

世界遺産

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グルジア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。

祝祭日

日付 日本語表記 現地語表記 備考
1月7日 クリスマス グルジア正教会正教会)のクリスマス、ユリウス暦の12月25日。
3月3日 母性の日
3月8日 国際女性デー
4月9日 国民団結の日 1989年トビリシで反ソ暴動が発生した日
5月9日 戦勝記念日
5月12日 アンドレイの日 伝承によれば使徒聖アンデレがキリスト教を最初にグルジアに伝えたとされる。
5月26日 独立記念日 1918年に独立宣言をした日
8月28日 生神女就寝祭 ユリウス暦8月15日
10月14日 スヴェティツホヴェリ教会の日
11月23日 ゲオルギオスの日 「啓蒙者」ゲオルギオスはグルジアの守護聖人。

著名な出身者

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参考文献

テンプレート:節stub

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Commons&cat テンプレート:Wikinewscat

政府
日本政府
観光

テンプレート:Navbox テンプレート:GUAM テンプレート:Navbox

テンプレート:Link GA

テンプレート:Link GA

  1. 1.0 1.1 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. テンプレート:Cite news
  3. 日本政府には「日本における各国公館の名称変更はクーデターなどによる国名変更時など特別な場合以外認められない」という原則があり、過去にローマ法王庁が「教皇庁」への表記変更を申請するも認められなかった。
  4. テンプレート:Cite news
  5. グルジア大統領にロシア融和派 現内閣の副首相 朝日新聞 2013年10月28
  6. 軍事研究 2008年12月
  7. 南コーカサス地方への政治経済的影響に関する一考察
  8. テンプレート:Cite web
  9. 『世界飛び地領土研究会』グルジア民族主義の台頭に、「南北統一」を訴えて独立
  10. 前田弘毅「ユーラシア最古の人類の里」/ 北川誠一・前田弘毅・廣瀬陽子・吉村貴之編著『コーカサスを知るための60章』明石書店 2006年 36-37ページ
  11. 大木俊治 「『百万本のバラ』の故郷へ」 『毎日新聞』 2009年11月24日、13版、10面。