越後騒動
テンプレート:出典の明記 越後騒動(えちごそうどう)は、江戸時代に越後国高田藩で起こった御家騒動。藩政を執っていた首席家老小栗美作と、これに敵対するお為方を称する一族重臣とが争い、将軍徳川綱吉の裁定で両派に厳しい処分が下され、高田藩は改易となった。
越後松平家
徳川家康の次男結城秀康は越前国北ノ庄(福井藩)67万石を領したが、元和9年(1623年)、2代藩主松平忠直の乱行を理由に改易となった。寛永元年(1624年)、越前には越後高田を領していた忠直の弟忠昌が入り、忠直の子仙千代(光長)は越後国高田藩26万石を新たに与えられた。
光長は家康の曾孫にあたり、更に母は2代将軍秀忠の娘勝姫であり、御三家に准じる越後中将家として重んじられた。高田藩は開墾を盛んに行い内高は36万石あまりとなっていた。
小栗美作の執政
光長入封から41年目の寛文5年(1665年)12月、高田は地震により大きな被害を受け、藩政を執っていた家老小栗五郎左衛門・荻田隼人が倒壊家屋により共に圧死した。小栗五郎左衛門の跡は息子小栗美作が小栗家は知行1万7,000石の首席家老の家柄で高田城代を継ぎ、荻田隼人の跡は息子荻田本繁(荻田主馬)が1万5,000石で清崎城代を継いだ。
美作は藩政にあたるようになると、幕府から5万両を借り受けて高田の町の復興にあて、高田の区画整理を断行して現在の上越市の市街を形成。この機に藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改めた。また、直江津の築港、関川の浚渫、新田の開墾、特産品(たばこ)の振興、銀の発掘などに手腕を振るい、江戸の殖産家河村瑞賢を招き中江用水等の用水路の開さくを行った。美作は藩政に大いに治績を上げたが、蔵米制への移行は多くの藩士にとっては減収となり怨まれ、また美作自身の贅沢好きで傲慢な性格から悪感情を持たれ、藩主光長の異母妹お勘を嫁にしたことものちに誤解を生むきっかけとなった。
御家騒動
延宝2年(1674年)、光長の嫡子綱賢が男子なく死去した。光長は既に60歳で他に男子はなく、急ぎ世継を定めねばならなくなった。世継の候補は光長の異母弟永見長良(永見大蔵)、光長の甥永見万徳丸(光長の異母弟永見長頼の子)、そして同じく光長の甥にあたる小栗美作の次男大六(掃部)、松平義行(尾張徳川光友の次男)であった。評議の結果、永見大蔵は既に40歳を越える高齢であり、15歳の万徳丸を世継とすることで決まった。万徳丸は元服して将軍家綱から一字をもらい綱国となり、三河守に任官した。
綱国が世継と決まったが、家中では美作が大六を世継にしようと企んでいるとの疑惑を持たれた。この頃、高田藩の財政は江戸住まいの光長の奢侈贅沢や美作の諸事業の費用のため悪化していた。財政の建て直しのために新税を課したが、そのために美作の評判は更に悪くなった。
荻田隼人の子の糸魚川城代荻田本繁、岡島壱岐などの重臣が永見大蔵と相結んで、890名におよぶ藩士と共に自らを「お為方」と称し、美作の一派を「逆意方」と呼んだ。延宝7年(1679年)正月、荻田本繁、永見大蔵らお為方は光長に目通りして同志890人の誓紙を差し出し、小栗美作の悪政を糾弾して、小栗美作の隠居を要求した。光長は小栗美作の隠居を命じる。美作は止む無く隠居を願い出たが、家中に美作が城下から逐電しようとしているとの噂が広まり、お為方が屋敷におしかける騒ぎとなった。光長が美作を擁護して、お為方は一旦は引き取った。
幕府評定所の裁定
美作は大六に家督を譲るが、事態を収拾できなくなった光長は大老酒井忠清に裁定を訴え出た。酒井忠清は両派に和解を申し渡す。だが、騒ぎは収まらず同年4月には美作が高田の町に火を放つとの流言が広がった。光長は鎮撫につとめ一旦は騒ぎは収まりかけるが、光長が参勤交代で荻田本繁、岡島壱岐らと江戸へ行くと、国許ではまた騒ぎが起きた。国許で騒ぎを起こしているのが永見大蔵と渡辺九十郎と知った光長は両名に江戸へ来るよう命じる。動きを封じられると思った永見大蔵と渡辺九十郎は江戸で同志を糾合しようと図った。このことが幕閣に知られ、先に和解を命じて無視された幕閣は激怒する。光長の従兄弟である姫路主松平直矩は大老酒井忠清と処分を相談し、10月に幕府評定所はお為方の永見大蔵、荻田主馬、片山外記、中根長左衛門、渡辺九十郎に人心を惑わした罪で大名家へのお預けの処分を下した。幕閣の裁定でお為方は敗れ、一方、小栗美作派では延宝8年(1680年)2月に大六が将軍に拝謁して元服している。お為方は小栗美作が大老に贈賄をしたと怒り、200人近くが脱藩する騒ぎとなった。
将軍綱吉の親裁(再審)
同年5月、将軍家綱が死去。綱吉が5代将軍に就任した。酒井忠清は大老を辞職した。綱吉はかつて忠清が家綱の危篤に際して綱吉ではなく皇族(有栖川宮幸仁親王)を迎えて将軍に立てようと主張していた事を深く恨んでいた。また、高田藩への先の裁定にも不満を持っていた。更に忠清が擁立しようとしていた有栖川宮の祖にあたる高松宮好仁親王の妃が光長の実の妹であった事も綱吉の疑念を深めていた。さらに光長が忠清を支持して皇族将軍を支持したことも恨みとなっていた。そこで、お為方は老中堀田正俊を頼って再審を願い出た。同じ頃、高田ではお為方の家老岡島壱岐と本多七左衛門が光長に暇乞いを願い出た。両名は将軍に拝謁した家来であり、その処遇には幕府の許可が必要であったため光長は幕府にお伺いを出した。綱吉はこの機会に先の裁定の再審を許可した。
再審は同年12月に始まり、小栗美作、岡島壱岐、本多七左衛門それに大名お預けとなった永見大蔵ら5名に江戸出府が命じられた。小栗美作とお為方は江戸に召集され、お為方は小栗美作の悪政と専横(贅沢で人心を堕落させ、豪華な屋敷をつくったことなど)を陳情し、更に子の大六を世継にしようと企てたと主張。年を越して詮議は続き延宝9年(1681年)6月、小栗美作、永見大蔵、荻田主馬が江戸城に召喚され、将軍綱吉の親裁が行われた。短い質疑の後、綱吉は裁定を下した。逆意方に対しては小栗美作とその子大六は切腹、その親族と一派の者は流罪、大名家へお預け、追放となった。お為方に対しても首謀者の永見大蔵、荻田本繁は八丈島に、岡島壱岐、本多七左衛門は三宅島にそれぞれ流罪、その他も大名家お預けとなった。逆意方に極めて厳しい処分が下され、お為方も喧嘩両成敗との処置がなされた。江戸城での詮議終了時に綱吉は「これにて決案す。はやまかり立て」と大声を発し場に居た者を震えあがらせたという[1]。
藩主光長に対しても家中取り締まり不行届きであるとして城地没収の上、伊予松山藩主松平定直へお預けの命が下った。世継の綱国も備後国福山藩へ預けられた。
更に先の裁定を行った幕府関係者も流罪などの処罰がされ(酒井忠清は同年5月に死去している)、累はこの件の処理に奔走した越後松平家の一門にも及び、従兄弟に当たる播磨国姫路主の松平直矩は15万石から8万石を削られ豊後国日田へ転封、またこれも従兄弟の出雲広瀬藩主松平近栄は3万石から1万5000石へ削られた。
光長は後に罪を許され、復位復官して合力米3万俵の俸禄が与えられた。松平直矩の子宣富を養子とし、宣富は美作津山藩10万石に封じられ、子孫は津山藩主松平家として幕末まで存続した。
脚注
- ↑ 深井雅海『綱吉と吉宗』2012年、吉川弘文館