桃 (松型駆逐艦)
桃 | |
艦歴 | |
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発注 | 1942年戦時建造補充(改マル5)追加計画 |
起工 | 1943年11月5日 |
進水 | 1944年3月25日 |
就役 | 1944年6月10日 |
その後 | 1944年12月15日戦没 |
除籍 | 1945年2月10日 |
要目 | |
排水量 | 基準:1,262t 公試:1,530t |
全長 | 100.00m |
全幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m(平均) |
機関 | オールギアードタービン2基2軸 19,000hp |
速力 | 27.8kt |
航続距離 | 18ktで3,500浬 |
燃料 | 重油370t |
乗員 | 211名/250名[1] |
兵装 | 40口径12.7cm単装高角砲 1基 40口径12.7cm連装高角砲 1基 25mm三連装機銃 4基 25mm単装機銃 8基 九二式61cm4連装魚雷発射管 1基 (予備魚雷なし) 爆雷投射機 2基 爆雷投下条 2基 二式爆雷×36 |
桃(もも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。松型(丁型)の4番艦である。日本海軍の艦名としては2代目。
艦歴
1942年戦時建造補充(改⑤)追加計画丁型(一等)駆逐艦第5484号艦として舞鶴海軍工廠で建造。1943年(昭和18年)11月5日に起工され、1944年(昭和19年)に6月10日竣工する。
竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入。瀬戸内海で訓練の後、7月15日、「松」「竹」および「梅」とともに第四十三駆逐隊(菅間良吉中佐)が編成される。8月20日、第四十三駆逐隊は新編された第三十一戦隊(江戸兵太郎少将・海兵40期)に編入。編入後も瀬戸内海で訓練を続行する。10月25日には「梅」「樅」「榧」とともに、台湾への輸送作戦を行う空母「龍鳳」、「海鷹」を護衛して佐世保を出撃し、10月27日に基隆に到着[2]。輸送任務を終えた後は10月30日に基隆を出港して佐世保を経由し、11月2日に呉に帰投した[3]。
第三十一戦隊は旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」と駆逐艦6隻を以って、南方に進出する戦艦「伊勢」、「日向」を護衛することとなった[4]。11月9日に五島列島有川湾を出撃し、馬公経由で南沙諸島長島に到着[5]。その後、「五十鈴」などとともにマニラに進出[6]。しかし、「五十鈴」は11月19日にアメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で損傷し、昭南、次いでスラバヤに下がって修理が行われる事となり、「五十鈴」を護衛して昭南に向かった[7]。第三十一戦隊旗艦は五十鈴から駆逐艦「霜月」に変更され、テンプレート:仮リンクに向かうこととなったため、「霜月」を護衛して昭南を出撃する。しかし、11月25日未明にアメリカ潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS-244) の雷撃により「霜月」が轟沈し、江戸少将以下第三十一戦隊司令部全員と乗員の大半が戦死。ソナーと聴音機で捜索するも、カヴァラは浮上してレーダーを使用して雷撃していたため探知できなかった[8]。46名の生存者[9]を救助の後マニラに再進出し、レイテ島行きの多号作戦に参加する事となる。
12月5日10時半[10]、第八次多号作戦輸送部隊はマニラを出撃。しかし、12月7日にアメリカ軍第77師団がオルモック南方に上陸したため、オルモックへの接近を断念して揚陸地をサン・イシドロに変更。兵員の揚陸は成功したが重火器の揚陸は出来ず、タクロバンからの陸軍機と海兵隊機の爆撃を受け、輸送船は沈没したり海岸に擱座して壊滅した。帰途にはマスバテ島の暗礁に触れたものの[11]、12月9日にマニラに帰投。12月14日、マニラで第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機の空襲を受ける。4度の攻撃を受けて5機を撃墜したと判断されたが、2発の直撃弾と多数の至近弾により、第二缶室と前部機械室、通信装置、水測兵器が使用不能となって最大速力は14ノットに落ちた[12]。一時は火災が発生して誘爆を防ぐため魚雷は投棄され、戦死者30名と負傷者102名を出した[12]。蒸化器も破損して真水にも事欠く有様となった[13]。これにより、空襲から避退して修理を受けるため馬公に向けて脱出することとなった[14]。僚艦の「梅」は香港へ、「杉」と「榧」はカムラン湾に向かう[15]。
12月15日、スービック湾内で第38任務部隊艦載機の空襲で沈没した輸送船「鴨緑丸」(大阪商船、7,362トン)[16]の処理を済ませた後、第60号駆潜艇を伴ってマニラを出港する[13]。しかし、夜に入りマニラの北西210海里の地点でアメリカ潜水艦ホークビル (USS Hawkbill, SS-366) に発見される。ホークビルはレーダーで2つの目標を探知し、19時27分に2つの目標に対して魚雷を3本ずつ発射[17]。うち4つの命中音が聞こえた[17]。魚雷は第二缶室に命中し、機械室が使用不能となって沈没していった[18]。駆逐艦長皆川芳雄少佐[19]以下30名が戦死。翌年2月10日に除籍された。
歴代艦長
艤装員長
- 益満行孝 少佐:1944年4月25日 -
艦長
- 益満行孝 少佐:1944年6月10日 -
- 皆川芳雄 少佐:1944年9月10日 - 12月15日戦死
フィクション
映画「深く静かに潜航せよ」(監督:ロバート・ワイズ、主演:クラーク・ゲーブル)では、タンカーの護衛をしていた駆逐艦モモが、主人公率いる潜水艦ナーカに撃沈される。
脚注
参考文献
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年八月一日至昭和十九年八月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(3)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127600
- 第十一水雷戦隊司令部『自昭和十九年十月一日至昭和十九年十月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』(昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(4)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030127700
- 野村留吉『第四航空戦隊 戦時日誌抜粋』(昭和19年5月1日~昭和20年3月1日 第4航空戦隊戦時日誌抜粋 (旗艦日向行動等)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030742100
- 第五艦隊司令部『自昭和十九年十二月一日至昭和十九年十二月三十一日 第五艦隊(第三遊撃部隊)戦時日誌』(昭和19年11月1日~昭和20年2月5日 第5艦隊戦時日誌(2)) アジア歴史資料センター レファレンスコード:C08030019900
- SS-244, USS CAVALLA(issuuベータ版)
- SS-366, USS HAWKBILL(issuuベータ版)
- 財団法人海上労働協会編『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、1962年/2007年、ISBN 978-4-425-30336-6
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年
- 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』私家版、2004年
- 雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、ISBN 4-05-603251-3
関連項目
テンプレート:松型駆逐艦- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.7
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.5,31,41
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.33,42,51,52
- ↑ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.53
- ↑ 野村, pp.9
- ↑ 野村, pp.10
- ↑ 木俣『日本水雷戦史』586ページ
- ↑ 「SS-244, USS CAVALLA」p.173
- ↑ 木俣『日本水雷戦史』587ページ
- ↑ 木俣『日本水雷戦史』569ページ
- ↑ 雨倉, 99ページ
- ↑ 12.0 12.1 『第五艦隊戦時日誌』pp.35
- ↑ 13.0 13.1 『第五艦隊戦時日誌』pp.35,36
- ↑ 『第五艦隊戦時日誌』pp.33
- ↑ 木俣『日本水雷戦史』571ページ
- ↑ 所謂ヘルシップ(地獄船)の一隻
- ↑ 17.0 17.1 「SS-366, USS HAWKBILL」p.66
- ↑ 木俣『日本水雷戦史』589ページ
- ↑ 雨倉, 95ページ