法観寺
法観寺(ほうかんじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。
歴史
伝承によれば五重塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという。
聖徳太子開基説は『山城州東山法観禅寺仏舎利塔記』(暦応元年・1338年)にみられ、近世の地誌類はこれを踏襲している。創建時の伽藍は四天王寺式伽藍配置または法隆寺式伽藍配置だったと考えられている。聖徳太子創建の伝承は信憑性に疑いがあるものの、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。境内から出土する瓦の様式から、創建は7世紀にさかのぼるとみられる。現存する五重塔は15世紀の再建であるが、創建時の塔跡に建てられており、古代寺院に特有の地下式の心礎(心柱の礎石)が残っている。寺号は当初は八坂寺と称され、八坂寺の文献上の初見は『続日本後紀』承和4年(837年)条である[1]。
『延喜式』には、大膳職から盂蘭盆供養料を給される七寺の一として八坂寺の名がある[2]。五重塔は平安時代末期の治承3年(1179年)に火災で焼失したが建久2年(1191年)源頼朝の援助により再建された。その後正応4年(1291年)に焼失し、延慶2年(1309年)後宇多天皇の援助で再建。現在の塔は永享8年(1436年)の焼失後、同12年(1440年)に足利義教の援助により再建されたものである。その間、仁治元年(1240年)に建仁寺8世の済翁証救が入寺して中興し、臨済宗建仁寺派に属する禅寺となる。さらに暦応元年(1338年)より夢窓疎石の勧めにより足利尊氏が全国に安国寺、利生塔を建てたが、都の利生塔としてはこの塔を充て仏舎利を奉納した[3]。
戦国時代には、地方から上洛した大名が当寺に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせたという。
伽藍
- 五重塔 - 永享12年(1440年)の再建。高さ49mで東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さをもつ純和様、本瓦葺の建築である。中心の礎石は創建当初のものが残っておりそのまま使われている。初層内部には大日如来を中心とする五智如来像を安置する。塔は重要文化財に指定されている。
他の堂宇としては、太子堂、薬師堂、茶室がある。太子堂には、聖徳太子の3歳と16歳の像がある。薬師堂には本尊の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、夢見地蔵菩薩、さらに十二神将像が安置されている。 茶室は五重塔の風鐸の音を聞くことができることから聴鐸庵という。ほか境内には木曾義仲の首塚と伝わる石塔もある。
文化財
重要文化財
- 五重塔
- 紙本著色八坂塔絵図(法観寺参詣曼荼羅)
京都市指定有形文化財
- 太子堂
- 薬師堂
拝観
八坂の塔は内部に入ることができるうえに、塔の2層目まで一般人が一般拝観で登ることができる、日本唯一の重要文化財指定の五重塔である。ただし、公開は不定期(寺院関係者の都合の良い日)のみであり、10:00~16:00という公開時間も、天候やその他の都合等により早く閉鎖されることもあり、確実なものではない。シーズン中の週末に公開日は集中しているが、シーズン中の週末でも悪天候時は大抵休むので、「確実に必ず内部を拝観できる日」は存在しない。もちろんオフシーズンの平日に開いていることもある。塔の内部に入ると仏像や礎石・心柱を見ることができる。また急な階段を2層目まで登ると、窓ごしに町並みを展望できる。しかし、横を通る八坂通りから境内が見渡せることもあり、有料拝観者はそれほど多くない。また、塔内の階段が急で危険なため、中学生未満の拝観はできない。悪天候時に拝観を休むのも、文化財内が濡れることを避けるためだけでなく、濡れた靴では階段でスリップする可能性が高まることも一因である。古い写真を見ると、最上層に金網が張っており、拝観者が最上層まで登れたことがわかる。
周辺
脚注
参考文献
- 「史跡法観寺境内」『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告』2009 – 11(京都市埋蔵文化財研究所、2010)p.3(参照: 京都市埋蔵文化財研究所サイト)
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社、1979
- 『国史大辞典』、吉川弘文館(「法観寺」の項)