大江親広
テンプレート:基礎情報 武士 大江 親広(おおえ の ちかひろ、生年不詳 - 仁治2年12月15日(1242年1月17日))は鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉幕府政所初代別当大江広元の長男。母は多田仁綱の娘。妻は北条義時の娘竹殿。
生涯
源通親の猶子となって源親広と称した。『吾妻鏡』には正治2年(1200年)2月記事から右近大夫将監として登場する。父が幕府の実力者であったことから将軍・源実朝に寺社奉行として重用され、北条氏からも執権義時の娘婿として厚い信任を受けた。建仁3年(1203年)11月鎌倉薬師堂の管理を命じられ、承元3年(1209年)頃から遠江守となる。建保元年(1212年)法勝寺九重の塔の供養の守護を務める。建保3年(1215年)4月京都駐在の御家人の監督を命じられ、同年6月将軍実朝の代理として栄西の臨終に立ち会う。建保4年(1216年)6月父の大江復姓に合わせて大江姓に戻った。建保7年(1219年)1月、実朝が公暁に暗殺されたため、出家して蓮阿と号す。同年2月、伊賀光季と共に京都守護に任じられて上洛した。承久3年(1221年)の承久の乱では後鳥羽天皇の招聘に応じて官軍側に与し、近江国にて幕府軍と戦ったが、敗れて京都に戻った。この戦いでは父広元は大軍による上京策を献策し鎌倉軍の士気を高め、嫡男佐房は鎌倉側東海道方面軍に加わり幕府軍の勝利に貢献した。佐房は戦後上田荘を与えられ幕府要職に就いた。
戦後は行方をくらましたが、祖父の多田仁綱が目代を務める出羽国寒河江荘に隠棲していたと言われている。また、乱後に離別させられた竹殿は、後に通親の子・土御門定通の側室となっており、定通の甥にあたる後嵯峨天皇の即位と深く関わることになる。
その後
承久の乱の後中央の史料からは姿を消す親広だが、隠棲したとされる寒河江荘には足跡が残る。父広元が嘉禄元年6月10日(1225年7月16日)に逝去すると、息子佐房に使いを送り阿弥陀如来の尊像を彫刻させ、胎内に広元の遺骨を納めて出羽国寒河江荘吉川(山形県西村山郡西川町)の阿弥陀堂に安置したという。別当を多田仁綱がつとめ、 天福2年(1234年)多田仁綱が亡くなると阿弥陀堂脇に葬られた。仁治2年(1241年)6月吉川の館の鬼門(東北方)にこの阿弥陀堂を移築し、仁治2年12月15日に親広が亡くなると、自身も阿弥陀堂の傍らに葬られたという。寒河江荘は次男高元が相続するが早世したため、鎌倉で要職についた三男広時が相続した。ただし寒河江荘北方(北寒河江荘)は北条氏の所領となり、寒河江氏は後に所領回復を目指すこととなる。
配下
承久の乱に敗れた親広は寒河江荘に隠棲したとされるが、その際付き従った配下は寒河江氏譜代の家臣として活動することになる。
- 中山忠義 - 花山院忠宗の子中山忠親の曾孫。長崎中山氏の祖。貞永元年(1232年)没。
- 菅井義定 - 大江匡房を祖とする。七条院(後鳥羽上皇母)・順徳院に仕える。蔵人。甲斐権守。
- 小野継胤 - 源盛義を祖とする清和源氏義光流平賀氏系小野氏。平賀氏の棟梁である大内惟信も承久の乱では上皇側に付いた。
- 高橋満明 - 宇多源氏を祖とする佐々木氏の一族だという。宇多源氏佐々木氏は近江を本拠とし、承久の乱で一族の大半が上皇側に付いた。
- 佐藤基春 - 藤原秀郷を祖とする美濃佐藤氏の流れをくむ。本貫地は武蔵国入間郷。
- 渡辺義継 - 渡辺綱を祖とする摂津渡辺氏の流れをくむ。
系譜
- 父:大江広元 - 鎌倉幕府政所初代別当。
- 養父:源通親 - 正二位、内大臣。土御門天皇の外祖父として権勢を振るう。
- 母:多田仁綱の娘 - 多田仁綱は多田源氏の出身。多田源氏は摂津国多田荘を本拠とするが、源頼朝により所領を没収され没落する。
- 側室:竹殿(北条義時の娘) - 北条義時は鎌倉幕府2代執権。竹殿は承久の乱後、養父通親の子定通の側室となる。
- 側室?:竹御所官女(平時家の娘) - 竹御所は源頼家の娘。平時家は源頼朝の側近で上総広常の婿。
- 生母不明
関連資料
- 『吾妻鏡』
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001
- 東京大学史料編纂所