徳大寺有恒
テンプレート:独自研究 テンプレート:Infobox 人物 徳大寺 有恒(とくだいじ ありつね、下はゆうこうとも読む)、1939年(昭和14年)11月14日 - )は、日本の自動車評論家。元・レーシングドライバー。本名・旧ペンネーム:杉江 博愛(すぎえ ひろよし)。
目次
人物
名前は「できるだけ偉そうにしよう」と決定したペンネームであり[1]、公家・徳大寺家との実際の関係はない。「間違いだらけのクルマ選び」を出版する前は、本名・杉江 博愛(すぎえ ひろよし)として活動していた。なお、徳大寺がわせだ書房の編集者だった頃に名刺を渡した豊田有恒は「有恒という名前が記憶に残っていたため、ペンネームに採用したのかもしれない」と述べている[2]。
日本を代表するクルマの第一人者的評論家として高い評価と知名度を得ている。他の評論家と比べると、車の乗り方から、男の生き方、経済批評まで間口を広げているのも特徴である。
「NAVI」(二玄社)や「ベストカー」(三推社)、「ENGINE」(新潮社)などの自動車専門誌や「MEN'S EX」(世界文化社)などの男性ファッション誌、テレビ、新聞、各種講演などを中心に幅広いジャンルで活躍する。カーグラフィック(二玄社)創刊編集長の小林彰太郎や、「教授」の異名を取る岡崎宏司などともに日本を代表する自動車評論家の一人である。なお、かつては日本カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)の選考委員を務めていたが、COTYの運営方針やメーカーの接待攻勢等に疑問を持つようになり、1990年代前半に辞めている。
カーメーカー・ブランドなど外国語の日本語表記について、原語に近い発音に拘ることで知られる。
※ 表記の例
・メルセデス→「メルツェデス」
・ジャガー→「ジャグァー」
・シトロエン→「シトローエン」
・2CV→「ドゥシヴォ」
・マセラッティ→「マゼラーティ」
・ツインカム→「ツウィンカム」
・ミニバン→「ミニヴァン」
来歴
幼少時代~大学時代
杉江の父親は栃木県の農家の出身で、足利市で運輸業を営んでいた。後に東京に移り自動車販売やタクシー会社を経営していた1939年(昭和14年)、杉江が誕生した[1]。
第二次世界大戦に伴い一家は茨城県水戸市に疎開、そのまま定住する。杉江は茨城大学教育学部附属中学校、水戸第一高等学校を経て成城大学経済学部に進学した。
レーシングドライバー
大学卒業後、1960年代初頭の日本のモータースポーツの黎明期にトヨタ自動車のワークス・チームの専属レーシングドライバーとして契約。同じトヨタチームの式場壮吉や浮谷東次郎や福澤幸雄、プリンスチームの生沢徹などとは、古くからの友人。ホンダの創設者本田宗一郎の息子で、エンジンチューンやアフターマーケットパーツ製造販売で知られる「無限」(現M-TEC)の創設者である本田博俊とも親交が深かった。しかし、レーサー時代は長続きせず、成績不振から引退を余儀なくされてしまう。
自動車評論家・徳大寺有恒へ
レース界を引退後には自動車用品会社「レーシングメイト」を東京都文京区に設立、一時は従業員40名を擁し、連夜銀座で豪遊できる繁盛ぶりだったという[1]。しかしながら1969年(昭和44年)、同社は倒産。
その後は、タクシー運転手などとして生計を立てた後、フリーランスとして文筆業を開始した[1]。ファッション雑誌「チェックメイト」(講談社)のライターを経て自動車評論家に転身、1976年(昭和51年)「徳大寺有恒」の筆名で自動車批評本『間違いだらけのクルマ選び - 良いクルマを買うための57章+全車種徹底批評』(草思社)を出版した。一冊目(1976年(昭和51年)版)には老舗誌「モーターマガジン」のテスターとして「杉江博愛」の名も登場。さりげなく同誌やテスター陣を褒めるかのような表現がなされている。
一方で、匿名を用いて本を出版したことに対し、当時の自動車業界からの反発は大きかった。「徳大寺有恒」という人物が誰なのかは当初秘密で、各方面でその正体が話題になっており、名前が似ていることから豊田有恒の変名と疑われたこともあったが[3]、文体や諸事情から「杉江博愛だろう」と囁かれていた。そして、「この杉江をAJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)から追放しよう」という声があがった。杉江はAJAJを脱退。記者会見を開き、自身が「徳大寺有恒」であることを公にした。
間違いだらけのクルマ選び
急激なモータリゼーションを経て大型消費財へと変貌していた当時の自動車を批判的に評論した『間違いだらけのクルマ選び』は1976年(昭和51年)に77万部が販売され[1]、「間違いだらけの○○」というフレーズは自動車の世界に留まらない流行語となった。その後も毎年版を重ね、毎年ベストセラーの上位にランクインした。
イラストは創刊から穂積和夫が担当。内容はユーザー側の視点で評論することを基本としていたが、日本の自動車メーカーに対してアドバイスするような内容が多くみられた。
車種別のタイトルは筆者ではなく編集部が付けたものである。そのため、ときとして筆者の本意とは違う印象を与えることがあった[4]。巻末にはジャンル別に採点表が掲載され、これは筆者の主観に基づいた内容であるとの断りを入れている。5点満点評価や0.5点刻みによる10点満点評価の時代もあった。
全メーカー全車種を掲載することを原則としていたが、運転席が最前部にある商用車ベースのワンボックスカーは、衝突安全をクリアすることが困難なため「危険な車種である」として1980年代後半以降は載せないようにしていた。また、商用車そのものを登場させることも皆無なため実際に売れていた軽ボンネットバンは出さずクオーレやセルボといった軽セダンを掲載させていたが、2012年版では特別にサンバーバンの説明が掲載された。
末期は年2回刊行となり、その多忙さゆえ、一部の車種しか載せないようになっていた。筆者の急病のため2005年(平成17年)夏版は休刊となり、2006年(平成18年)1月にそれまでの総集編である最終版を出版。30年間の歴史にピリオドを打つ。
現在
「間違いだらけのクルマ選び」の執筆は一度は止めたものの2011年(平成23年)復刊を果たした[5]。「ベストカー」や「NAVI」、「ENGINE」などに定期、もしくは不定期の連載を行う傍ら、年に数冊のペースで自動車批評本も発刊している。
私生活
自動車評論家という職業柄、膨大な台数の車を購入しては手放している。外国車を中心に複数台所有するが、特にシトロエンを好み、最近の愛車はシトロエン・DS3である。かつて、夫人の足代わりに軽自動車のスズキ・ワゴンRを購入した過去もあるが、現在はミニである。
自動車以外の嗜好は喫煙で、特に葉巻を好み、酒好きでもある[6]。「助手席には女性以外は乗せない」ことを信条とし、ファッションなどでも英国風のダンディズムを標榜する。
重度の糖尿病に罹患している。これは著書[1][6]などで自ら述べている。
著書
単著
- 「間違いだらけのエコカー選び」(2009年(平成21年))
- 「間違いだらけのクルマ選び」(1976年(昭和51年) - 2006年(平成18年))
- 「最新・間違いだらけの外国車選び」
- 「徳大寺有恒のクルマ運転術」
- 「間違いだらけの運転テクニック」(1989年)
- 「徳大寺有恒のクルマ選び77の法則」
- 「大人のためのブランド・カー講座」
- 「ぼくの日本自動車史」
- 「ぶ男に生まれて」 (飛鳥新社、1999年(平成11年)12月)
- 「男は男らしく生きろ!」
- 「いい女のカーライフ」
- 「クルマの掟」
- 「ああ、人生グランド・ツーリング」
- 「眼が見えない猫のきもち」
- 「決定版 女性のための運転術」
- 「ぶ男の遺言」
共著
脚注
関連項目
- 日本人ドライバー一覧
- ICHIKOHロードナビゲーター - (かつて放送されたラジオ番組)