K作戦

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二式大艇
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日日本時間1942年3月4日
場所ハワイ真珠湾
結果:日本軍は作戦を成功させたが、アメリカ側の損害は軽微。
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 大日本帝国 アメリカ合衆国
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 橋爪寿夫 大尉 -
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 二式大艇2機、潜水艦4隻 -
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 無し 道路などが損傷

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K作戦(けーさくせん)とは、第二次世界大戦中の日本海軍の作戦の1つで、二式飛行艇(二式大艇)による真珠湾攻撃を企図・実行したもの。1942年の2月から3月にかけて行われた。またこの作戦は二式大艇の初の実戦となった。

第一次

計画

日本海軍は真珠湾攻撃後の1941年12月17日に潜水艦伊7から発進した偵察機のハワイ偵察を行い、翌42年1月5日にも伊19より搭載機による偵察を行った。これによりアメリカ軍灯火管制もせずに急ピッチで真珠湾攻撃の損害の復旧をしていることを知った。復旧活動を妨害すると同時に米軍の士気に損害を加えるため、二式大艇による更なる真珠湾攻撃を行う案が持ち上がる。1月17日、連合艦隊参謀長はその研究および計画立案を南洋部隊航空部隊司令部に行うよう伝えた。

参加兵力は2機で、マーシャル諸島ウオッゼ島を出発し、途中フレンチフリゲート礁で潜水艦から燃料補給を受けるという計画だった。

経過

二式大艇は1942年2月12日に横須賀を出発し、14日にマーシャル諸島ヤルート島に到着した。また、2月中旬までに伊15伊19伊26水偵格納筒を改造して、航空燃料補給装置を完成させた。

2月20日、ラバウル東方に米機動部隊が出現。さらに、24日にはウェーク島空襲を受け、作戦に参加する潜水艦が索敵に従事したため、作戦は2日延期された。

3月2日、二式大艇はウオッゼ島に移動した。給油を行う潜水艦は3日早朝までにフレンチフリゲート礁に進出した。

同4日0025(日本時間、以下同じ)、二式大艇2機(1番機・橋爪寿夫大尉機、2番機・笹生庄助少尉機)はウオッゼ島を出発した。途中伊9からの長波照射による誘導を受け、1300にフレンチフリゲート礁上空に到着した。1350に着水し、伊15、伊19から給油を開始、1600に離水ハワイへ向かった。

両機はネッカー島(1657)、ニイハウ島(1825)、カウアイ島(1935)と通過し、およそ2100にオアフ島沖へ到着した。この間アメリカ側は、1844にカウアイ島のレーダーで2機を捕捉、当初は味方機であると認識していたが、用心のためカタリナ飛行艇P-40戦闘機迎撃機として発進させるとともに、1918に空襲警報を発令した。だがこれら迎撃機に発見されること無く、1番機は2110、2番機は2130に、それぞれ4発の250キロ爆弾を投下し帰途についた。

1番機は5日0920ヤルート島に帰還。2番機は燃料補給後の離水時に損傷があったためウオッゼ島に向かい、5日0910に到着した。

作戦は予定通り遂行されたが、上空の視界の悪さや急遽の灯火管制の為もあり、爆弾は真珠湾内のドック燃料タンク停泊中の船舶などの目標を外れて周辺の道路などに落下し、アメリカ側の被害は軽微であった。

なお、2機の二式大艇は、その後、ミッドウェー島ジョンストン島に対する偵察に投入された。3月10日ウオッゼを出発したが、ミッドウェー島に向かった機(橋爪機)はレーダーで捉えられ、F4F戦闘機により撃墜されている。

第二次

計画

第1次K作戦の終了後、ミッドウェー島の攻略を決めた日本軍は、再び二式大艇によるハワイ方面の敵情偵察を行うことにした。この作戦は第2次K作戦と命名され、前回と同様にフレンチフリゲート礁で潜水艦からの給油を実施する計画だった。

1942年5月、真珠湾に米機動部隊が在泊していることを前提として計画されたミッドウェー作戦のため、連合艦隊は、真珠湾の動静確認が重要で知敵手段として潜水艦哨戒配備と二式飛行艇での敵情偵察を行う2回目のK作戦を計画。

経過

一方のアメリカ軍も、第1次K作戦の後、飛行艇による同様の作戦が繰り返されることを警戒していた。アメリカ海軍は、5月6日、日本海軍による無線交信の通信解析暗号解読により、フレンチフリゲート礁が中継地として利用されたことを突き止めた[1] 。アメリカ海軍は、フレンチフリゲート礁の利用を阻止するため、艦艇を派遣して警備することにした。

5月30日、第2次K作戦のため、給油担当の伊123はフレンチフリゲート礁に進出した。しかし、アメリカ海軍の機雷敷設艦プレブル」(en, 元クレムソン級駆逐艦)と水上機母艦ソーントン」(USS Thornton (DD-270), 元クレムソン級駆逐艦)が先に展開して、警備中だった。伊123はアメリカ艦の存在に気付いて作戦を1日延期するも、なお警戒が厳重であったため作戦は中止となった。

第2次K作戦の失敗により、日本軍はハワイ方面の敵情を確認できずにミッドウェー海戦を戦うことになり、日本側の敗因の一つとなった。

失敗の報告を受けた連合艦隊は計画が崩れたことに何ら対策を取らなかった。戦後、連合艦隊参謀黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきである。ところが私の敵情判断の間違いなどから、あんな配備のつき方を計画してしまった。そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れてしまった。また、今次作戦は連合艦隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべきであった」と語っている[2]。K作戦失敗で完全に日本は敵機動部隊の知敵手段を失ったが、黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒できると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった」という[3]

脚注

  1. ロナルド・ルウィン(著)、白須英子(訳) 『日本の暗号を解読せよ―日米暗号戦史』 草思社、1988年、99-100頁。
  2. 戦史叢書43ミッドウェー海戦199頁
  3. 戦史叢書43ミッドウェー海戦246頁

参考文献

  • 防衛研修所戦史室『戦史叢書 第38巻 中部太平洋方面海軍作戦(1)』朝雲新聞社、1970
  • 碇義朗『最後の二式大艇』光人社、1994
  • 『歴史群像シリーズ 二式大艇と飛行艇』学習研究社、2008
  • モデルアート573号増刊「真珠湾攻撃隊」

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