中観派

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テンプレート:Sidebar 中観派(ちゅうがんは、テンプレート:Lang-sa-short, Mādhyamika, マーディヤミカ)は、インド大乗仏教哲学において、瑜伽行派唯識派)と並ぶ2大潮流であり、龍樹(りゅうじゅ、Nāgārjuna, ナーガールジュナ、150年 - 250年頃)『中論』の著作によって創始された、「中観」(Madhyamaka, マディヤマカ)という立場を奉じる学派のこと。

教理

新しい「縁起」と「中観」

中観派の教理は、『般若経[1]の影響を受けたものであり、その根幹は、「縁起」「無自性)」である。

(ちなみに、こうした関係主義的な「縁起」の発想は、当人達も強調しているように、(「これがあるとき、かれがある…」「およそ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである」といった発想として)釈迦の時代の初期仏教から説かれているものであり、これらが特段、彼らの独創というわけではないという点は、誤解の無いように注意してもらいたい。彼らの業績の意義は、専らこうした発想を、他派に対して固守したこと、あるいは強調・拡張・深化したことにあるのであって、その独創性にあるわけではない。)

ただし、注意が必要なのは、ナーガールジュナの『中論』に始まる中観派が専ら主張している「縁起」は、初期仏教の「十二支縁起」(十二因縁)のような此縁性縁起や、「全ての事物(有為)は因(原因)と縁(条件)によって生起する」といった時間的生起関係(無常)を表す一般的な意味での縁起(有為法・因縁生起)等とは、いくらかニュアンス・切り口が異なり (あるいは、そうした発想が成立する根本・根底部分を、表層的・通俗的な曲解・逸脱から護るべく、そのまま開示したものであり)、「長があるとき、短がある」といった表現に象徴されるような、事象・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」を指しているという点である[2]

この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・)であり、「仮名(けみょう)」「仮説仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。

こうした理解によって初めて、『中論』の冒頭で掲げられる「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の意味も、難解とされる『中論』の内容も (そしてまた、それを継承しつつ成立した『善勇猛般若経』のような後期般若経典や、大乗仏教全体に広まった「無分別」の概念なども)、適切に理解できるようになる。

(逆に言えば、ただの時間的生起関係・因果関係を意味するような、通常的・通俗的な「縁起」観で以てこれを理解しようとすると、例えば化学的変化を考える際に原子を絶対的・固定的実体と見做して前提してしまいがちになるのと同じように、あるいは、「神が世界を創った」といった発想が典型なように、「変化するもの」(因果律)の背後に、その「前提・土台・基礎・始原」となる「変化しないもの・自立的なもの」(特異点)を想定してしまうようになるので (ちょうどナーガールジュナがこの書で論破しようとしている論敵(部派)と同じように)矛盾に陥ったり、『中論』の内容が理解不能になって頓挫することになる。)

上記したように、二項対立する現象・概念は、相互に依存・限定し合うことで、支え合うことで、相対的に成立しているだけの、「幻影」のごときものに過ぎず、自立的なものではないので、そのどちらか一方を信じ込み、それに執着・傾斜してしまうと、必ず誤謬に陥ってしまうことになる。言い換えれば、人間が成すいかなる概念的・論理的・分析的・分別的な認識・思考・言及も、必ず「不完全」なものであり、「戯論」を帰結してしまうことになる。

そのことを示しつつ、上記の「八不」のごとき、(常見断見のような)両極の偏った見解(二辺)のいずれか一方に陥らず、「」(中道・中観、Madhyamaka, マディヤマカ)の立場を獲得・護持すること、どこまで行っても「不完全」な「戯論」にしかならない概念的・論理的・分析的・分別的な認識・思考・言及に浴するのではなく、そうした諸々の「戯論」が滅した境地をこそ釈迦が到達した至高の境地・根本的境地として賞揚することが、『中論』及び中観派の本義である。

この「無自性(空)」の教えは、これ以後大乗仏教の中心的課題となり、禅宗チベット仏教などにも大きな影響を与えた。

(ただし、後で下述するように、中国仏教日本仏教のような漢字文化圏においては、翻訳上の問題や、「空」という字義の強さゆえに、『中論』の本来の意味からはややズレた、必要以上に複雑な解釈が、歴史的に流通してきた面があることも、併せて踏まえておく必要がある。)

成立経緯

こうしたナーガールジュナの『中論』に提示される、新しい「縁起」観は、説一切有部を中心とした部派に対する論駁を発端とする。

部派仏教の時代、釈迦の説いた縁起説が発展・変質し、その解説のための論書(アビダルマ)が様々に著されていくことになるが、当時の最大勢力であった説一切有部などでは、生成変化する事象の背後に、それを成立せしめるための諸要素として、変化・変質しない独自・固有の相を持った、イデアのごとき形而上的・独立的・自立的な基体・実体・性質・機能としての「」(ダルマ, dharma)が、様々に想定され、説明されていくようになった(五位七十五法、三世実有・法体恒有)。こうした動きに対して、それが釈迦以来の「縁起」説の破壊と、「常見」的執着・堕落に陥る危険性を危惧し、(『成実論』等にその思想が表されている経量部などと共に) 批判を加えたのが、ナーガールジュナである。

(こうした「独立した形而上的実体を想定する側」と「それを批判する側」としての、説一切有部と、ナーガールジュナ・中観派の関係は、プラトンアリストテレス、あるいは、キリスト教スコラ学普遍論争における「実念論」と「唯名論」の関係に、例えられたりもする[3]。)

『中論』は論駁の書であり、説一切有部らが説く、様々な形而上的基体・実体・性質・機能である「法」(ダルマ, dharma)の自立性・独立性、すなわち「有自性」「法有」に対して、そうしたものを想定すると、矛盾に陥ることを帰謬論証(背理法、プラサンガ)で以て1つ1つ示していき、「法」(ダルマ, dharma)なるものも自立的・独立的には成立しえず、相互依存的にしか成立し得ないこと、すなわち「無自性」「法空」を説く。

こうして、(『ギリシア哲学者列伝』にもその名を残し、極端な相対主義者・懐疑論者として知られるピュロン等にも例えられる[3]ように、)形而上的基体・実体・性質・機能としての「法」(ダルマ, dharma)すらも含む、ありとあらゆるものの徹底した相互依存性・相対性をとなえる、新たな独特の「縁起」観、そして、それに則る「中観」という発想が、成立することになる。

究極的真理としての「真諦」(第一義諦・勝義諦)

しかし一方で、こうした徹底した相互依存性・相対性に則ると、当然の帰結として、(『中論』24章の冒頭でも論敵による批判として触れられているように) 釈迦自身がとなえた教え(四諦涅槃四向四果四沙門果)等)すらもまた、相対化してしまうことになる。

こうした問題は、『中論』24章冒頭にそれが取り上げられていることからも分かるように、ナーガールジュナ自身にも強く意識されていた。そこで、『中論』24章にも書かれているように、ナーガールジュナはここで、「二諦」(satya-dvaya, サティヤ・ドヴァヤ)という発想を持ち込み、「諦」(真理、satya, サティヤ)には、

  • 世俗の立場での真理 --- 「俗諦」(世俗諦、samvriti-satya, サンヴリティ・サティヤ): 分別智ジュニャーナ, jñāna, 若那, 智)
  • 究極の立場から見た真理 --- 「真諦」(第一義諦勝義諦、paramārtha-satya, パラマールタ・サティヤ): 無分別智プラジュニャー, prajñā, 般若, 慧)

の2つがあり、釈迦が悟った本当の真理の内容は、後者、すなわち自分達が述べているような、徹底した相互依存性・相対性の感得の果てにある(概念・言語表現を超えた)「中観」(「無分別」)の境地に他ならないが、世俗の言葉・表現では容易にはそれを言い表し得ず、不完全に理解されて凡夫を害してしまうことを恐れた釈迦は、あえてそれを説かずに、前者、すなわち従来の仏教で説かれてきたような、凡夫でも理解出来る、レベルを落とした平易な内容・修行法を、(方便として)説いてきた(が、釈迦の説を、矛盾の無いように、よくよく精査・吟味していけば、我々の考えこそが正しいことが分かる)のだという論を展開した。

(なお、「勝義諦」という語彙・概念自体は、部派仏教の時代から、「法(ダルマ)によって構成される、(世俗の概念・認識とは異なる)世界の実相」といった意味で用いられていたものであり、別にナーガールジュナが独自に生み出したものではない点に注意が必要。ナーガールジュナが行ったのは、そうした部派仏教が立脚していた「法(ダルマ)」の非自立性・空性を(帰謬論証的に)示すことによって、「勝義諦」の内容を、言語化不可能・言及不可能・分析不可能なものへと押し上げたことである。)

こうしたナーガールジュナ・中観派の説明が、当時の他派に通じたとは言い難く、上記の『中論』の記述にも見られるように、ちょうどナーガールジュナ等が説一切有部らを「常見を執した常住論者」として批判したのと対になるように、ナーガールジュナ・中観派らは「無・断見を執した都無論者(ニヒリスト)」として、古代インド当時から、各方面の批判に晒されることになり[4]、その後の中観派は、註釈などを通して、その弁明・擁護を繰り返すことになった。

以上のごとく、『般若経』『維摩経』『十地経』など独自の大乗経典に加え、この『中論』などで説かれる教理が付加されながら、従来的な仏教(いわゆる「上座部仏教小乗仏教声聞乗」としての説一切有部等)と完全に袂を分かった、全く新しい形の仏教(大乗仏教)の流れが、確立していくことになった。

天台宗の「三諦偈」「一心三観」「円融三諦」

なお、天台宗の教理を通して、中観思想を理解しようとする際には、注意が必要である。

慧文禅師に始まる天台宗では、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)による漢訳『中論』の、第24章18詩である、

「衆因縁生(因縁所生)の法、我即ち是れ無()なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦是れ中道の義なり。」
(どんな縁起の法でも、それを我々は空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。)

における「空」「仮」「中」を、それぞれ別々の真理(諦)と捉え(「空諦」「仮諦」「中諦」)、この文を、その「三諦」を説いているものとして「三諦偈」と呼ぶ。

ここでは、「空」と「仮」が、「無」(断見)と「有」(常見)の「二辺」として捉えられてしまっており、その「空観」と「仮観」の対立から、「中観」(「非有非空の中道」)を見出すこと、あるいは、これら「三諦」を一体的なものとして観ずること(「一心三観」「円融三諦(三諦円融)」)などが、説かれる。

しかしながら、上述したように、『中論』の原義から言えば、この一文は「空」(空性)も、「仮」(仮名・仮説・仮設)も、「中」(中道・中観)も、全て、「縁起」「無自性」の言い換えであり、同じ内容を違う言葉・表現で言い表してるだけ、ただの「同義語」として使用し、「無分別」(勝義諦)の境地を強調的に表現しているだけに過ぎず、対置・対立させるような関係にはそもそもないのであり、ましてや、「空」や「仮」を、「無」(断見)や「有」(常見)の「二辺」と混同してしまうような、上記の捉え方は、端的に言って、文の解釈としては、明確に誤りである[5]

(ちなみに、三論宗の宗祖である嘉祥大師吉蔵もまた、(全面的ではないにしろ)こうした「三諦」の解釈を承認していた。)

こうした天台宗・中国仏教的な「誤解」を、前向き・好意的に捉えることもできなくはない(実際、「空」に「仮」を対置させて「中」を引き出そうとするといった、語彙・概念にまつわる誤解は混じっているものの、「空」(あるいは、「無分別」)という概念もまた「非空」なる諸々の概念(あるいは、「分別」)と相互依存的に成り立っているとも見ることができるし、「空」(あるいは、「無分別」)概念の実体視や、そこへの執着・依存を避けるためには、「空」(あるいは、「無分別」)概念もまた、「非空」なる諸々の概念(あるいは、「分別」)と相互に限定・相対化されるべき対象になるわけで、そういった点では発想としては間違っていないし、冗長ではあるものの、(「分別」(世俗諦)と「無分別」(勝義諦・中観)の関係を調停し、その「二諦」の狭間・重ね合わせの中を生きることを賞揚する人間主体的・現実的な発想として)丁寧にもう一歩踏み進んだメタ的な「中観」へと到達しているものだとも言える)が、少なくとも、『中論』自体の正確な理解や、その主旨である「縁起」「無自性」の正確な読み取りを考える上では、確実に妨げになるということだけは、踏まえておいてもらいたい。

歴史

初期中観派

龍樹に続いて、その弟子の提婆(だいば、聖提婆・聖天、(sanskrit) aaryadeva、170年 - 270年頃)が『百論』『広百論』の著作によって教えを体系化した。

中期中観派

その後、仏護(ぶつご、buddhapaalita、470年 - 540年頃)、清弁(しょうべん、bhaavaviveka、490年 - 570年頃)、月称(げっしょう、candrakiirti、650年頃)などの学者が輩出し、空性を体得する方法論で議論を深めた。

ことに清弁は、唯識派陳那(じんな、dignaaga、480年 - 540年頃)の認識論・論理学を自己の学説に導入して方法論を構築したが、この態度を月称を代表とするグループによって批判された。

清弁系を、自立論証派 (svaatantrika) と呼び、月称系統は、仏護なども含めて帰謬論証派(きびゅう-)(praasaNgika) と呼んでいる。

後期中観派

8世紀には、清弁系統を継いで、7世紀の唯識学派の法称(ほっしょう、dharmakiirti)の論理学や認識論を中観の立場から解釈した、ジュニャーナガルバ寂護(じゃくご、zaantarakSita、725年 - 784年頃)、蓮華戒(れんげかい、kamalaziila、740年 - 794年頃)、ハリバドラらが活躍した。彼らは、中観の学説の下に瑜伽行唯識学派の学説を配置することによって両学説の統合を図った。こうした折衷的立場は、それぞれの名から瑜伽行中観派とも呼ばれる。

ところが、11世紀以降には、ふたたび月称系統の流れが盛んとなり、アティーシャプラジュニャーカラマティなどの学者が輩出する。さらに、チベットにも中観派の教えが伝えられツォンカパ1357年 - 1419年)などに継承されている。

系譜

中観派の主な系譜は以下の通り[6]

初期
スヴァータントリカ派(自立論証派) プラーサンギカ派(帰謬論証派)
中期
  • バーヴァヴィヴェーカ(清弁、490-570年頃):『般若灯論釈』『中観心論頌』『中観心論註思択焔』『大乗掌珍論』
  • ブッダパーリタ(仏護、470-540年頃):『根本中論註』
  • チャンドラキールティ(月称、600-650年頃):『プラサンナパダー』(浄明句論, 明らかな言葉)、『入中論』(中観への入門)
  • シャーンティデーヴァ(寂天、650-700年頃):『入菩提行論』(さとりの行いへの入門)、『学処集成』(学道の集成)、『経集成』(諸経文の集成)
後期1
後期2


影響・伝播

中国・日本

中国・日本に伝えられた中観派の教えは、初期の龍樹・提婆のものが伝えられ、それ以降の論書はほとんど当時は伝わらなかった。彼らの『中論』『百論』『十二門論』の教えを中心とするので、三論宗と呼ばれた。

また、天台宗の始祖である慧文禅師も、龍樹の『中論』に影響を受けて中諦・三諦を説いたので、ある面では中観思想を継承していると言える。

チベット

チベット仏教と中観派のつながりは、思想面に限らず様々な面でとても深い。というのも、地理的・歴史的条件ゆえに、チベットの王が国家規模で仏教指導を請う先は、ナーランダー大僧院ヴィクラマシーラ大僧院等にならざるを得ず、そこから派遣され、チベット仏教を形作っていったインド僧は、この中観派に属する者(中観思想を信奉する者)が多かったからである。

まず、吐蕃ティソン・デツェン王に招請されたナーランダー大僧院のシャーンタラクシタ(寂護)は、チベット初の仏教僧院サムイェー寺を建立し、密教パドマサンバヴァと共に、チベット仏教の始祖となった。更に、その弟子であるカマラシーラ(蓮華戒)は、中国僧である摩訶衍との論争に勝利し、チベット仏教の方向性を決定づけた(サムイェー宗論)。

その後、吐蕃の滅亡に伴い、チベット仏教界は打撃を受けるが、グゲ王国の保護によって復興が始まる。その際、グゲの王がヴィクラマシーラ大僧院から招請したのが、アティーシャであった。彼は中観思想と無上瑜伽タントラを信奉する、顕密統合志向の僧であったが、これが現在のチベット仏教の雛形となった。これは後に、最大宗派ゲルク派の祖となるツォンカパによって、確固たるものになる。

ツォンカパは、ブッダパーリタ(仏護)の『中論註』によって、帰謬論証派(プラーサンギカ派)的な中論理解に確信を抱き、アティーシャの『菩提道灯論』を参考にしつつ、『秘密集会タントラ』を中心とする密教との顕密統合の手がかりとした。

このように、チベット仏教と中観派は、思想的にも人的にも、とてもつながりが深い。そして、総合仏教たるチベット仏教の、密教面の柱が無上瑜伽タントラだとするならば、顕教面の柱はこの中観派の著作・思想と言っても過言ではない。

近現代の解釈・評価

神秘主義・否定神学

ナーガールジュナや中観派(帰謬論証派)は、帰謬論証(背理法)に頼ったその態度や、「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)に象徴されるような、直感的に分かりづらく、一見矛盾・支離滅裂とすら感じられるような側面に焦点を当てれば、神秘主義否定神学との近似性が見出される。

仏教学者中村元は、「縁起」「空」を中心とした中観派の思想を、欧州や中国など、同時代の他地域の思想と比較し、神秘主義の1つである新プラトン主義ネオプラトニズム)、とりわけ偽ディオニシウス・アレオパギタらの「否定神学」(神秘神学)を、比較的近しいものとして挙げている[7]。絶対者は否定的にのみ把捉されうるという発想は、インドにおいてはリグ・ヴェーダウパニシャッド哲学(つまりは、ヤージュニャヴァルキヤらの「真我アートマン)」思想)以来の流れがあり、(釈迦による「無我」「縁起」への深化、および般若経と龍樹によるそれらの継承・焦点化・拡張を経て)この中観派において、それが(徹底した否定(肯定的論証における帰謬/背理の暴き出し)・相対化・関係化として)極致に至りつつ、ついにインド思想(ひいては東洋思想)の主流の一角を占めるまでになるが、それに対して、西洋においてはアリストテレス的(『形而上学』的)実体論(を背景とした『オルガノン』的肯定論証)から抜け出せず、こういった発想はせいぜい神秘主義の中で細々と継承される傍流に過ぎなかったという。

(とはいえ、西洋においても、生成変化する諸現象の背後に変化しない絶対者を想定し、感覚認識を虚偽のものとして否定するエレア派の存在論、「万物流転」を説くヘラクレイトス、抽象概念を論理的に突き詰めると背理に陥ることを明かしたソクラテスの帰謬論証(背理法)など、仏教あるいはその前段階の思想と、ある程度の近似性を見せる水準の発想は、古代ギリシャのわりと早い時期に成立・普及していたこともまた、ちゃんと踏まえておく必要がある。)

なお、この「空」は、中国の道教における虚無)と混同されやすいけれども、異なるものであることも指摘している。(「有」や「無」といった見解(常見断見)も、『中論』において明確に否定されている。「空」(शून्यता, Śūnyatā, シューニャター)というのは、「nihil, nothing」(無、虚無) ではなく、「empty」(空っぽ) ということであり、森羅万象が、それ自体として自立的な実体を持っているわけではないということを表している。)

また、「空」を基底とした発想は、単なるニヒリズム(虚無主義)であると誤解され、批判を受けやすいが、しかし一方で、こうした排斥も対立も無い真の基底の獲得は、生きとし生けるものへの肯定・慈悲へとつながり、実践を基礎づける効果をもたらす。これは神概念が包括性・完全性を担保し、基底となることで、他者への慈悲・愛へとつなげるキリスト教と(その深度こそ違え)構成的には類似しているという。

言語哲学

一方で、仏教思想は概ね、ただの認識対象にまつわる素朴な実体論に留まらず、認識主体や言語との関係性としての認識論や言語論を内包しているので、西洋の哲学・思想・学問と関連付けて論じられる際にも、そうした切り口(例えば、ハイデガー現象学存在論との共通性、デリダ脱構築との共通性、ポストモダニズムとの類似性など)から論じられることが多いが、そんな仏教思想の中でもとりわけ、ナーガールジュナ・中観派の思想は、「言葉・概念の相対性・恣意性」にまつわる考察・主張が際立っているので、20世紀以降の西洋における言語哲学、例えば

等と絡めて論じられることが多い[8]

中村元は、長年アリストテレス的実体論に支配されてきた西洋が、近代以降、とりわけ20世紀以降、徐々にその影響下から逃れることで、ナーガールジュナ・中観派に対応する発想が出てくるようになったとするが、その中でも注目すべきものとして、(ノーベル賞も受賞した論理学者かつ数学者かつ哲学者である)バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』における実体論批判を引用している[9]。その引用を一部以下に抜粋する。

『実体』という概念は、真面目に考えれば、さまざまな難点から自由ではあり得ない概念である。・・・諸性質を取り去ってみて、実体そのものを想像しようと試みると、われわれはそこに何も残っていないことを見出すのである。・・・実際には『実体』とは、さまざまな出来事を束にして集める便宜的な方法に過ぎない。・・・それは諸生起がひっかかっているはずの単なる空想上の「吊りかぎ」に過ぎない。・・・それは、多数の出来事に対する一つの集合的な名称なのである。・・・一言にしていえば、『実体』という概念は形而上学的な誤謬であり・・・
(『西洋哲学史』 市井三郎訳、上巻、205ページ)

出典・脚注

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関連項目

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  1. 大智度論』との対応から、『二万五千頌般若経』と考えるのが妥当。
  2. 『龍樹』 中村元 講談社学術文庫 pp179-230
  3. 3.0 3.1 『龍樹』 中村元 講談社学術文庫 p154
  4. 『龍樹』 中村元 講談社学術文庫 pp68-71
  5. 『龍樹』 中村元 講談社学術文庫 p250-258
  6. 参考:『龍樹』中村元 講談社学術文庫
  7. 『龍樹』中村元 講談社学術文庫 p436-450
  8. 中村元以外では、黒崎宏丸山圭三郎等々を参照。
  9. 『龍樹』 中村元 講談社学術文庫 pp438-439