声聞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Sidebar 声聞 (しょうもん、サンスクリット:श्रावक Zraavaka)という用語はジャイナ教の経典にも見られるものであり、仏教成立以前からインドで広く用いられていたものであることはほぼ間違いない。仏教では、古くは縁覚も声聞であり声聞縁覚地、声聞縁覚乗などのように表現された。また、菩薩も声聞であり声聞菩薩地、声聞菩薩乗などのように表現された。この名残りは日本の仏教にも垣間見られ、彫像や絵図に表される地蔵菩薩の頭型は声聞形であるとされる。

声聞を仏教史的な過程で見ていくと、当初から声聞という用語が基底にあったが、縁覚と菩薩とに分化され、声聞の意味が縁覚に先立つ境地として狭義化していったと考えられる。縁覚については、さらにそれを二つに分かつ目論見が成されたが、これは定着しなかった。では、縁覚や菩薩を含む広義の意味での声聞とは何かということになるが、声聞とは梵天をはじめとする神々や悪魔の声を聴聞し、それら神々や悪魔と対話する段階、もしくはその境地であると捉えられよう(サンユッタ・ニカーヤ)。

このことは漢訳の声聞という訳語そのものからもある程度比定できるが、日本の中世で神懸り的・呪術的な興行を行う職業芸人を「声聞師」と呼んだことからも伺い知れる。広義の声聞にあたる境地は、大乗仏教では上四天の魔境とされたり、早く退出するべきものとする傾向があり、それが一般化して声聞や縁覚を忌む社会的風潮の一因となっていったと考えられる。この風潮はときに賤民差別とも強く結びついた。また、密教では声聞という用語が使われることは稀で、代わって金剛(vajra)に始まる用語が多用された。

大乗仏教では菩薩行は利他を重んじる行として別格としながらも、狭義の意味の声聞に縁覚と菩薩とを合わせて、小乗三乗と呼ぶようになっていった。日本に於いては阿羅漢となることを限度とする南伝仏教を声聞乗とする説があり、他の大乗仏教圏にも影響を与えた。しかし、これは多分に第二次世界大戦以前の近代に流布されたものであって、仏教一般では四向四果の過程を有学、それ以後を無学とすることが通例となっている。有学・無学の過程に大乗小乗の別を持ち込むことは授記記別)に等しく、南伝仏教を声聞乗とするのは宗教文化間の褒貶にくみした俗説と言って差し支えない。

こうした俗説が生まれた背景には、時代が下るにつれて菩薩という用語の意味が徐々に曖昧化しながら拡張し、ついには衆生皆菩薩とする言説が出現したのと同様[1]、声聞の意味も曖昧化しながら拡張して「教えを聴聞する者」の意で用いられるようになったことにも起因していよう。阿羅漢を最高位とする南伝仏教は、むしろ本来的な意味での声聞を忌避する行法を恒常化させたものであると考えられ[2]、それをして声聞乗とするのは明らかに誤りである。

声聞がこのように広く忌避されてきたのは、広義の声聞地が艱難の行地であることも理由のひとつにあると思われる。特に、声聞縁覚乗の艱難横死に触れる経論は珍しくない。一方で、勝鬘師子吼一乘大方便方廣經(勝鬘経)では、声聞縁覚乗も皆大乗に入り得ると説く。そうした記述は法華経にも顕著に見られる。法華経の序品に続く方便品では、声聞乗・縁覚乗の二つは教化のための方便であり、三(菩薩乗)を経て、悉く一(一仏乗もしくは大乗)に帰すことを説いている。天台教学ではこのことを「開三顕一」と呼んで、法華経前半部分の重要な主旨であるとした。

声聞が忌避された他の理由には、声聞乗に入って神変を示すことを目的化させた僧団が出現し、社会の撹乱・疲弊要因となったことも上げられよう。文献史料で裏付けられるものとして、インド仏教後期には女性を引き連れた遊行僧団まで存在したと言う。これは後に左道密教として忌み嫌われたものの源流であったと考えられる。宗教学的な観点に立てば、声聞乗に入るということは、此岸彼岸の境界(結界)を透過することを意味する。しかし、降霊術のように一時的なものではなく、それを常態化させるものとなるため、封印する教派が相次いだとしてもおかしくはない。これに近い言説を成す経論も含めて、大乗仏教の経論は波羅蜜多行を通した多義的な廻向を説く。

四大声聞

法華経』授記品において、釈尊から未来の成仏の記別にあずかった4人の大弟子を総称して四大声聞という。その4人とは次のとおり。

関連項目

脚注・出典

テンプレート:Reflist


  1. 大乗仏教には声聞行や縁覚行の表現をとらず、すべてを菩薩行として位置づけた経論が少なくない。入門の際の受戒も具足戒を経ずに菩薩戒によって行われることも稀ではなく、論争の火種となってきた。
  2. 教学は伝承されている。