トヨタ・モータースポーツ
テンプレート:Pathnav テンプレート:レーシングチーム トヨタ・モータースポーツ有限会社 (Toyota Motorsport GmbH、TMG) は、トヨタ自動車のヨーロッパにおけるモータースポーツ活動を担当する子会社。外部企業向けのエンジニアリングサービスも行っている。本社所在地はドイツのケルン。2012年よりトヨタ・レーシングとしてFIA 世界耐久選手権 (WEC) に参戦している。
前身は世界ラリー選手権 (WRC) で活躍したトヨタ・チーム・ヨーロッパ (Toyota Team Europe, TTE) 。F1世界選手権ではパナソニック・トヨタ・レーシングの活動母体となった。
目次
[非表示]歴史
ラリーでの活躍
会社の前身は、スウェーデン出身のラリードライバー、オベ・アンダーソンのプライベートチームである「アンダーソン・モータースポーツ」。その活躍が国際ラリー活動を模索していたトヨタの目に止まり、1972年より資金・技術支援を受ける。
1975年よりトヨタの公認を受け、チーム名を「トヨタ・チーム・ヨーロッパ (TTE) 」と名乗る[1]。同年の1000湖ラリーでトヨタのWRC初優勝を獲得する(マシンはカローラレビン)。
1979年、チームの拠点をベルギーのブリュッセルからドイツのケルンに移転し、「アンダーソン・モータースポーツGmbH」を設立する。レビンの後はセリカを使用し、年数戦のWRC参戦を続ける。
1983年、トヨタのモータースポーツ活動再開により、本格的にワークス活動を開始する。当時のWRCのグループB規定車両では苦戦したが、サファリラリーでは1984年から3連覇を達成する。1987年にグループA規定が導入されると、翌1988年より4輪駆動のセリカGT-Fourを投入する。
1990年代に入るとその活動は黄金期を迎え、1990年にカルロス・サインツがWRCとアジアパシフィックラリー選手権 (APRC) で共にドライバーズタイトルを獲得する。1992年にもサインツがWRCのドライバーズタイトルを獲得。1993年にはユハ・カンクネンのドライバーズタイトルに加え、初のメイクスタイトルを獲得してWRCでのダブルタイトルを達成。翌1994年もドライバーズ(ディディエ・オリオール)とメイクスの2冠を達成した。
1993年7月には、トヨタがアンダーソン・モータースポーツGmbHを買収し、社名は「トヨタ・モータースポーツ有限会社 (TMG) 」へと改称された(チーム名はTTEを継続)。
しかし1995年、TTEはシーズン中にリストリクターに関するレギュレーション違反が発覚し、シーズン全ポイントの剥奪、および翌1996年シーズンの1年間参戦禁止という処分を受ける。トヨタ本社ではTMGの存続やアンダーソンの責任問題が議論されたが、1997年もWRC参戦を自粛する形で決着した。TTEは2年間の休止期間中に新規定の「WRカー」としてカローラWRCを開発した(1997年には非公式でテスト参戦)。
1998年よりWRCに正式に復活し、1999年には3度目のメイクスタイトルを獲得する。しかし、トヨタがF1への参戦を決定するとその役割に集中するため、同年限りで27年間のラリー活動に終止符を打った。ただし、その後もプライベーターへのマシン供給などの活動は続けられている。
また、レクサスなどトヨタの市販車を対象に、アフターパーツの企画・製造・販売を行っていたが、2010年に終了している[2]。
サーキットレースへの転身
1990年代後半、トヨタは北米のCARTへのエンジン供給を皮切りに、サーキットレース活動に注力する。TTEはWRC活動の傍ら、ル・マン24時間レース等の耐久レースへ参戦するため、トヨタ・GT-One TS020の開発を行った[3]。1998年と1999年にはル・マン24時間レースに出場し、1999年には総合2位に入ったものの、目標とした総合優勝には届かなかった。 テンプレート:Main 1999年にはトヨタ本社がF1参戦を表明。2000年にはトヨタ常務取締役の冨田務がTMG会長、オベ・アンダーソンがTMG社長に就任する[4]。ケルンのファクトリーは140億円を投じて床面積を約3倍(37,000平方メートル)に拡張し[4]、日本のトヨタ東富士研究所と連携してF1マシンの開発を行うことになる。TS020はテストカーTF101が完成するまでの間、エンジンテスト等に利用された。
1年のテスト期間を経て、2002年より「パナソニック・トヨタ・レーシング」としてF1に参戦を開始する。2003年にはジョン・ハウェットがTMG新社長に就任。創始者のアンダーソンは2004年にチーム代表も辞して第一線を退く。2007年には冨田に代わり、山科忠がTMG会長兼チーム代表に就任する。
2009年シーズン終了後にトヨタ本社がF1撤退を発表。8年間のF1活動において、コンストラクターズ最高成績は4位(テンプレート:F1)。潤沢な運営資金と最新鋭の設備を誇りながら、F1での優勝は果たせなかった。
F1撤退後の活動
F1撤退後、TMGは他チームへの売却やMBOも噂されたが、再びヨーロッパにおけるトヨタのレース活動の拠点として、事業転換を進めることになる[5]。シャシー部門責任者のパスカル・バセロンらは残留したが、スタッフ500名を解雇し、ファクトリーの規模を150名体制に縮小した[6]。
市販車事業
F1参戦中は機密保持のため、トヨタ社内の他部門との交流は少なかった。今後は日本の研究開発機関と連携し、車台実験などの機能を補完することになる[7]。
また、TMG独自の新規事業として、電気自動車 (EV) のベンチャービジネスを推進している。F1では投入されなかった運動エネルギー回生システム (KERS) の小型バッテリー技術を応用して、ガソリンエンジン車のエンジンと換装するコンバートEVを開発している[7]。この車両は外部企業よりe-WOLF[8]というブランドで市販される。
他社との提携
F1撤退決定後も、2010年用マシンとして準備していたTF110の開発を継続。2010年にF1参入を目指すステファンGPとの間でマシンの譲渡、人員の移籍、施設の利用などの提携交渉を進めたが、ステファンGPのエントリーが認められず契約は終了した[9]。その後、新規参戦するヒスパニアとの交渉も不調に終わった[10]。
TMGの施設内にはエアロダイナミクス用の大型風洞2基やCFDコンピュータ、エンジン用のテストベンチ、サスペンション用の7ポストリグ、ドライビングシミュレーターなどの研究開発資材が揃っており、これら「F1時代の遺産」をレンタルする新事業を拡大している。また、モータースポーツ以外の企業に向けても、ハイテク・エンジニアリングサービスを提供している[11]。
2009年に使用したTF109は、2011年からF1のタイヤサプライヤーとなるピレリに、テストカーとしてレンタルされた。フェラーリやウィリアムズは自社の風洞以外にTMGの風洞も利用して、2011年用マシンを開発した[12]。
2014年よりF1にエンジンメーカーとして参入する計画を進めているP.U.R.E.は、TMG施設においてV6ターボエンジンを開発する契約を結んだ[13]。
レース復帰へ
本業のレース活動に関しては、トヨタのハイブリッド技術の活用を含め、いくつかのカテゴリが候補として浮上した。2011年、ル・マン24時間レースに参戦するレベリオン・レーシングに対しエンジン供給を行い[14]、耐久レースへの復帰路線が濃厚になる。なお、このエンジンはフォーミュラ・ニッポンやSUPER GT (GT500) 用のRV8KをLMP1規定にチューンしたもので、新規開発ではない[7]。
2012年、新たにLMP1クラス用のハイブリッドマシンであるTS030 HYBRIDを開発。「トヨタ・レーシング」としてFIA 世界耐久選手権に参戦することを表明した[15]。デビュー3戦目となる第5戦サンパウロ6時間レースでは、トヨタとしては1992年以来となる優勝を果たした。2014年にはLMP1クラスのレギュレーション変更に伴い新型車のTS040 HYBRIDをデビューさせた。
2012年3月には1.6リッター直噴ターボのグローバル・レース・エンジン (GRE) を新規開発中であると発表。ヤリス(日本名「ヴィッツ」)をベース車両にする予定で、世界ラリー選手権への復帰も選択肢にある[16]。同年8月、GT86(日本名「86」)をベースにしたプライベーター用耐久マシンGT86 CS-V3の発売を発表[17]。また、EVレーサーTMG EV P002[18]が伝統のパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムでEVクラス優勝(総合6位)を果たした[19]。
脚注
参考文献
- 赤井邦彦 『F1 トヨタの挑戦』 文藝春秋、2003年、ISBN 4163595201
- 「徹底解剖 パナソニック・トヨタ・レーシング」『レーシング・オン 2005年8月号』 イデア、2005年
関連項目
- トヨタ自動車のモータースポーツ
- 福井敏雄 (自動車) - 元トヨタ・チーム・ヨーロッパ副社長。