坂田道太

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テンプレート:政治家 坂田 道太(さかた みちた、1916年7月18日 - 2004年1月13日)は、日本政治家

衆議院議長(第64代)、法務大臣第40代)、防衛庁長官第33代)、文部大臣(第9192代)、厚生大臣37代)、衆議院議員(17期)等を歴任した。

父は衆議院議員八代市長を務めた坂田道男

来歴

熊本県八代市生まれ。旧制八代中学校旧制成城高等学校(現成城大学)、東京帝国大学文学部卒業。石井光次郎商工大臣の秘書官を経て、1946年第22回衆議院議員総選挙に熊本県全県区から出馬し、初当選した(当選同期に小坂善太郎二階堂進江崎真澄小沢佐重喜水田三喜男村上勇川崎秀二井出一太郎早川崇中野四郎らがいる)。以後、17期連続当選。日本自由党民主自由党自由党を経て、自由民主党に入党。自民党ではかつて仕えた石井が所属する、緒方竹虎率いる水曜会に入会。石井は緒方の死後、水曜会を継承するが、石井の引退により水曜会は解散。以後、坂田自身は政界引退まで無派閥を通した。1947年第23回衆議院議員総選挙以降は、旧熊本2区から出馬。

1959年第2次岸内閣厚生大臣に任命され、初入閣。学生運動が激化していた1968年、文教族実務家のキャリアを買われ、第2次佐藤内閣第2次改造内閣文部大臣に任命される。同年、東京大学入試中止を決定したが、坂田自身は後にこれを「最大の痛恨事」と回想した。また翌1969年1月には、東大安田講堂事件直後の東京大学を視察する佐藤栄作首相に同行した。同年8月には大学の運営に関する臨時措置法制定を推進し、大学紛争の沈静化をはかった。

1974年三木内閣防衛庁長官に任命された。組閣当初は坂田が法務大臣稲葉修が防衛庁長官に就任する予定であったが、当時65歳の稲葉が三自衛隊の長としては高齢であるとの意見が出たため、稲葉が法務大臣に就任し、入れ替わる形で坂田が防衛庁長官に就任したとされる(松野頼三は後年、「三木武夫首相に腰の曲がった稲葉が防衛庁長官では見栄えが悪いから」と交換を進言したと、熊本日日新聞に掲載された回顧録で述懐している)。坂田は、三木武夫首相の在任中に訴追された田中角栄と親しかったため、後年「もし法相に就任していたら苦悩しただろう」と回顧した(田中と坂田は当選が1期違いであり、同じ吉田学校出身でもあった)。いわゆる三木おろしの際には、三木首相の退陣を主張する挙党体制確立協議会に所属する閣僚が軒並み三木に反旗を翻す中「防衛庁長官は三自衛隊の長に殉じる」と中立の立場を示した。

1978年大平正芳首相から自由民主党政務調査会長への就任を要請されたが、これを固辞する。1981年11月、鈴木善幸改造内閣法務大臣に任命され、1年弱の在任中、1人の死刑囚の死刑を執行した。1985年、体調不良により辞任した福永健司の後任の衆議院議長に就任し、1986年6月まで務めた。議長在任中、1985年12月の衆院本会議終了後、その年1年間の挨拶(円滑な議会運営に対する謝辞)を述べた後散会宣言をしないまま一度議長席を立ってしまったため、衆議院事務総長に呼び止められて再度議長席に戻り、議席から笑い声が上がる中、照れ笑いしながら散会宣言を行った事がある。

1989年竹下登首相の退陣を受け、伊東正義後藤田正晴などとともに後継総裁の候補に名前が挙がったが、「議長経験者が首相になるのはよくない」として固辞(戦後政治で首相、衆議院議長の両方を経験した者は幣原喜重郎がいるが、幣原は首相を退任した後に衆院議長に就任しており、議長経験者の首相就任は例がない。戦前では近衛文麿貴族院議長から首相になっているが、当時の議長の地位は戦後よりはるかに低かった)。

1990年第39回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界を引退。2004年1月13日に死去。87歳没。

人物

文教族として

大達茂雄岡潔に師事し、党内では文教族で知られた。後に内閣総理大臣を務める海部俊樹森喜朗も、坂田の指導を受けた。

防衛庁長官として

防衛庁長官に就任したものの、坂田は文教族であったため、安全保障政策はほぼ素人同然であった。しかし佐瀬昌盛によれば、素人のために逆に防衛問題を積極的に学ぶこととなり、専門家の意見に耳を傾け、数々の施策を講じた。例えば「国防の議論は国民的な支持、納得を得られるものでなくてはならない」として、民間人からなる有識者懇談会「防衛を考える会」を設置、久保卓也防衛事務次官と共に、「防衛計画の大綱(防衛大綱)」を策定、防衛力整備の考えとして「基盤的防衛力」構想を根幹に置く路線を決定した[1]

同様に議論の透明性を確保するため、従来予算・外交委員会などで散発的に審議されていた防衛問題について、国会に専門で審議を担当する委員会の設置を主張した。また、日米防衛協力の具体化のため、政治レベルでの防衛協議を開始したことでも知られる(このような日米協力路線は福田政権で成立する「日米防衛協力のための指針(旧ガイドライン)」の原型となった)。ベレンコ中尉亡命事件の際には「作業は、たとえミグ屋(アメリカのミグ解体専門チーム)の手を借りることとなっても、イニシアティヴだけは、しっかり日本側で取るべし」と当時の角田義隆空幕長に指示。ミグ25を完全に解体して調べ上げ、また元のように組み立て直してソ連に返還した。防衛庁長官連続在任記録1位(746日間)。

「亡くなられた坂田さん…」

政界引退後の2000年5月14日NHKの『日曜討論』で森喜朗首相が「亡くなられた坂田さん…」と発言し、存命中であったにも関わらず物故者扱いされてしまった。夫人から「あなた、死んだわよ」と言われ、坂田も「そうか」と笑って受け流したという(もちろん、後日森から釈明があったことは言うまでもない。坂田の元秘書であり、故人だった元衆議院議員の渡瀬憲明と勘違いしたという)。

著書

  • 『大学混迷から再建へ』(新月社、1969年)
  • 『小さくても大きな役割』(朝雲新聞社、1977年)
  • 『西欧諸国の保安処分制度』(高文堂出版社、1982年)
  • 『文教の旗を掲げて――坂田道太聞書』(永地正直共著、西日本新聞社、1992年)

選挙歴

当落 選挙 施行日 選挙区 政党 得票数 得票率 得票順位
/候補者数
比例区 比例順位
/候補者数
第22回衆議院議員総選挙 1946年4月10日 熊本県全県区 日本自由党 ' ' ' - -
第23回衆議院議員総選挙 1947年4月25日 熊本県第2区 日本自由党 38,089 11.6 4/19 - -
第24回衆議院議員総選挙 1949年1月23日 熊本県第2区 民主自由党 50,481 14.5 1/13 - -
第25回衆議院議員総選挙 1952年10月1日 熊本県第2区 自由党 40,936 10.6 3/14 - -
第26回衆議院議員総選挙 1953年4月19日 熊本県第2区 自由党 44,828 12.2 5/9 - -
第27回衆議院議員総選挙 1955年2月27日 熊本県第2区 自由党 40,674 10.7 5/11 - -
第28回衆議院議員総選挙 1958年5月22日 熊本県第2区 自由民主党 69,138 16.5 1/9 - -
第29回衆議院議員総選挙 1960年11月20日 熊本県第2区 自由民主党 67,081 17.6 2/9 - -
第30回衆議院議員総選挙 1963年11月21日 熊本県第2区 自由民主党 73,190 19.1 2/7 - -
第31回衆議院議員総選挙 1967年1月29日 熊本県第2区 自由民主党 75,359 20.4 2/7 - -
第32回衆議院議員総選挙 1969年12月27日 熊本県第2区 自由民主党 83,827 23.5 2/6 - -
第33回衆議院議員総選挙 1972年12月10日 熊本県第2区 自由民主党 60,173 14.5 2/12 - -
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 熊本県第2区 自由民主党 70,772 16.6 2/8 - -
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 熊本県第2区 自由民主党 63,285 14.6 3/8 - -
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 熊本県第2区 自由民主党 76,571 18.3 2/7 - -
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 熊本県第2区 自由民主党 66,080 16.0 4/8 - -
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 熊本県第2区 自由民主党 64,038 14.9 2/10 - -
当選回数17回 (衆議院議員17)

参考文献

  • 永地正直『文教の旗を掲げて ― 坂田道太聞書』 西日本新聞社、1992年、ISBN 4816703217
  • 田中明彦『安全保障 ─ 戦後50年の模索』 読売新聞社1997年、ISBN 4643970049
  • 佐瀬昌盛『むしろ素人の方がよい 防衛庁長官・坂田道太が成し遂げた政策の大転換』 新潮選書2014年、 ISBN 978-4106037405

演じた俳優

出典

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福永健司 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院議長
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原健三郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
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灘尾弘吉 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部大臣
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高見三郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
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