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2014年5月10日 (土) 10:09時点における最新版

テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox Arab-Israeli conflict 中東戦争(ちゅうとうせんそう アラビア語: الصراع العربي الإسرائيلي‎ Al-Sira'a Al'Arabi A'Israili、ヘブライ語: הסכסוך הישראלי-ערבי‎ Ha'Sikhsukh Ha'Yisraeli-Aravi、英語: Arab–Israeli conflict)は、ユダヤ人国家イスラエルと周辺アラブ国家との間での戦争である。1948年から1973年までの間に大規模な戦争が4度起こっており、それぞれが第一次から第四次に分類されている。

アメリカイギリスフランスがイスラエルに、ソ連がアラブ側に対して支援や武器供給を行っていることから、代理戦争の側面も含んでいる。ただしイデオロギーよりは中東地域による利権や武器売買などの経済的な動機が重きを占めていた。そのため初期にイスラエルに支援や武器供給を行なっていたイギリス・フランスは第3次中東戦争以降石油政策などからアラブ側に回り、さらに中華人民共和国イラン革命後のイランが武器供給や軍事支援においてアラブ側に入り込むなど、大国や周辺諸国の思惑の入り混じる戦争でもある。

また双方の宗教の聖地であるエルサレムヘブロンなどの帰属問題の絡んだ宗教戦争の側面もある。

アラブとユダヤの対立

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パレスチナは長い間イスラーム国家の支配下に置かれていたが、この地に居住するイスラム教徒ユダヤ教徒キリスト教徒の三者(人種的には全てアラブ人)は共存関係を維持してきた。しかし20世紀初頭オスマン帝国第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナはイギリス委任統治領として植民地化された(イギリス委任統治領パレスチナ)。

このころすでにドレフュス事件などの影響もあり、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起こっていた。ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活をしていたユダヤ人によるパレスチナ入植がはじまった。パレスチナを統治しているイギリスは、はじめ入植を規制しなかった。

入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まった。アラブ人はイギリスに対して入植の制限を求めたため、イギリスはアラブとユダヤの板挟みに合うこととなり、戦間期のパレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。

第二次世界大戦期にはナチス・ドイツの反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった。戦中・戦後に発生したユダヤ人難民のうち相当数が「約束の地」パレスチナを目指したため、ユダヤ人の入植は急増しアラブ人との摩擦はますます強くなった。

事態収拾を困難と見たイギリスは、戦後に成立した国際連合にパレスチナ問題を提訴した。国連は1947年11月に、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議(パレスチナ分割決議)を採択し、イギリスによる委任統治が終了することが決定した。アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し、これ以降ユダヤ人とアラブ人双方の間で、武力衝突(暴動・テロ・民兵同士の戦闘)が頻発することとなった。

1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(イスラエル独立宣言)。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争が勃発・多くのパレスチナ難民も発生した。

今でもイスラエルとアラブ諸国は犬猿の仲であり、テロは絶えず、イスラエル人は親米のサウジアラビアやクウェートやアラブ首長国連邦でさえも入国できず、国交のあるエジプトとヨルダンのみしか入国できない。パスポートにイスラエルの入国スタンプがあるだけでアラブ諸国では入国拒否される程であり、旅行者はイスラエル入国スタンプを別紙に押せば回避ができる。また、イスラエルオリンピック委員会サッカーイスラエル代表アジアオリンピック評議会アジアサッカー連盟からヨーロッパオリンピック委員会欧州サッカー連盟に移籍している。

第一次中東戦争

テンプレート:Main 1948年5月14日イスラエルが独立を宣言すると、これに反対する周辺アラブ諸国(エジプトサウジアラビアイラクトランスヨルダンシリアレバノン、その他パレスチナのアラブ人部隊など)がパレスチナへ進軍した。アラブ側の兵力は約15万以上、イスラエル側の兵力は3万弱といわれている。数で優勢なアラブ連合軍はイスラエルを包囲する形で進軍したが、各国間の不信感から連携がうまくいかず兵士の士気も低かった。緒戦はその物的優位によりアラブ連合軍が善戦する。しかし、二度の休戦期間の間に、イスラエル軍は部隊を強化することに成功した。アラブ諸国の足並みの乱れもあり、ヨルダン方面を除き、戦況は次第にイスラエル優位になった。そして、イスラエル優位のまま1949年6月、双方が国連の停戦勧告を受け入れた。イスラエルでは、この戦争を独立戦争と呼ぶ。この戦争によって、イスラエルの領土は、国連による分割決議以上の範囲が確保された。

第二次中東戦争

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第二次中東戦争 青い矢印はイスラエル軍の進路(1956年11月1日〜5日)

テンプレート:Main 1956年エジプトで、イギリスアメリカによるアスワン・ハイ・ダムの建設が中止になったため、当時のエジプト大統領ナセル7月、対抗手段としてスエズ運河の国有化を発表した。スエズ運河運営会社の株主でもあり、石油を含む貿易ルートとして、スエズ運河を利用するイギリス・フランス両国はこれに反発した。そのため、10月、イスラエルを支援してエジプトとの戦争を煽動し、自らは仲裁の名目で介入した。

戦争は10月29日、イスラエルによるシナイ半島侵攻により開始された。空挺部隊・戦車部隊を活用した攻撃により、エジプト軍は総崩れとなり、シナイ半島の大半は、イスラエル軍が占領することとなった。イスラエル軍が進撃中の、11月5日イギリス・フランスも軍事介入し、スエズ運河地帯に上陸した。しかし、この攻撃にはエジプトを支援してきたソ連はもちろん、イギリス・フランスが支持を期待していたアメリカも含めて国際的な非難が沸き起こり、11月6日に国連の停戦決議を受け入れることとなった。これがPKOの起源である。12月になり、国連の調停により、英仏両国はエジプトによるスエズ運河国有化を受け入れた。

エジプトは1957年1月にイギリスとフランスの銀行を国有化し、3月にスエズ運河の運行を再開した。一般には「スエズ動乱」や「スエズ戦争」とも呼ばれる。

第三次中東戦争

テンプレート:Main ゴラン高原におけるユダヤ人入植地の建設を巡ってアラブ側とイスラエルとの間で緊張が高まりつつあった1967年6月5日、イスラエルはエジプト、シリア、イラク、ヨルダンの空軍基地に先制攻撃を行なった。第三次中東戦争の始まりである。緒戦でアラブ側は410機の軍用航空機を破壊された。制空権を失ったアラブ諸国は地上戦でも敗北し、イスラエルはヨルダンヨルダン川西岸地区・エジプト(当時アラブ連合共和国)のガザ地区シナイ半島・シリアのゴラン高原を迅速に占領した。戦争前と比較し領土を約4倍以上に拡大したことになる。スエズ運河東岸はイスラエルが占領したため最前線となり、運河は通航不能となった。なお、6日で勝敗が決したため「六日戦争」とも呼ばれる。

消耗戦争

テンプレート:Main この後、イスラエルとエジプトは完全な停戦状態になったわけではなく、「テンプレート:仮リンク」と呼ばれる散発的な砲爆撃を行う状態が、1970年まで続いた。この「消耗戦争」を、それまでの戦争と区別して「第四次中東戦争」と呼ぶこともある[1]。この場合は、下記の第四次が第五次ということになる。

第四次中東戦争

テンプレート:Main 1973年10月6日、エジプトが前戦争での失地回復のため、シリアとともにイスラエルに先制攻撃をかけ、第四次中東戦争が開始された。ユダヤ教徒にとって重要な贖罪日(ヨム・キプール)の期間であり、イスラエルの休日であった。イスラエルは軍事攻撃を予想していなかった為に対応が遅れたといわれている。一方エジプト、シリア連合軍は周到に準備をしており、第三次中東戦争で制空権を失った為に早期敗北を招いた反省から、地対空ミサイルを揃え徹底した防空体制で地上軍を支援する作戦をとった。この「ミサイルの傘作戦」は成功し、イスラエル空軍の反撃を退けイスラエル機甲師団に大打撃を与えることに成功した。緒戦でシナイ半島のイスラエル軍は大打撃を受けたことになる。そして、エジプト軍はスエズ運河を渡河し、その東岸を確保することに成功した。

10月11日より、イスラエル軍による反撃が開始され、シリア軍およびモロッコ・サウジアラビア・イラクの応援軍を破り、ゴラン高原を再占領することに成功した。シナイ半島方面においても、10月15日より反撃が開始され、翌16日にはスエズ運河を逆渡河、西岸の一部を確保した。ここにいたり、国際社会による調停が実り、10月23日に停戦となった。

10月に勃発したので十月戦争、ユダヤ教の贖罪日(ヨム・キプール)に起きたのでヨム・キプール戦争とも呼ばれる。緒戦においてではあるが、エジプトが勝利し、イスラエルが敗北したことにより、両国首脳の認識に変化が生じ、後のキャンプ・デービッド合意(エジプト-イスラエル和平合意)に結びつく。

なお、アラブ各国はこの戦いを有利に展開するため、イスラエルを援助する西側諸国に対して石油戦略を発動し、世界でオイルショックを引き起こした。

アラブの連合

4度の戦争を経過するに当たり、中東各国はイスラエルや西側に対抗するために、ソビエト連邦との関係を強め、あるいはエジプトのナセル大統領の提唱した汎アラブ主義に基づいて各国が合併や連合したが、産油国と非産油国の思惑は常にすれ違い、こちらはいずれも失敗した。

連合した国と期間

中東戦争終結の理由

第四次中東戦争以後、イスラエルとアラブ国家との本格的な武力衝突は起きていない。いくつかの理由が挙げられるが、第一に、ナセルの後を引き継いだサダト・エジプト大統領は、反イスラエル路線を転換し、1978年3月に単独で平和条約に調印したためである。かつてアラブの盟主を自認し、中東戦争を先頭で進めたエジプトの離脱は、アラブの連携を崩した。サダトはノーベル平和賞を受賞したが、1981年10月、イスラム復興主義者により暗殺された。しかし親イスラエル路線は後継者ムバーラク2011年エジプト革命で政権を失うまで継続された。ただし、革命後に就任したムルシー大統領はイスラム主義系の大統領で、イスラエルとは一定の距離を置く姿勢を見せている。

第二に、1979年イランで起きたイスラム革命である。イスラム原理主義による国政を目指す勢力が、国王を国外追放して政権を握ってしまったことは、社会の近代化を進めようとするサウジアラビアなどのアラブの王国にとって脅威であった。アラブ諸国は革命が自国に飛び火することを恐れ、イランに対する締め付けを図った。それはイスラム革命の世界的広がりを恐れるソビエト連邦アメリカ合衆国なども同じであった。1981年、アラブを代表して国境を接するイラクがイランとの全面戦争(イラン・イラク戦争)に突入し、アラブ各国をはじめ、米ソもイラクを支援した。

こうしてイスラエルの敵対勢力は、アラブ国家から非政府運動組織であるパレスチナ解放機構(PLO)などへと移行し、正規軍同士の戦いから対ゲリラテロ戦争へと変化していった(中東戦争は終結した訳ではなく戦争の形態が変化しただけとも言える)。PLOはファタハが加わってヤセル・アラファトが議長になると、その指導の下で国際連合総会オブザーバーの地位を得るなど事実上のパレスチナ自治政府としての地位を確立した。

イスラエルが1982年に行ったレバノン侵攻と、それに続く諸勢力の内戦は、アラブ側では「第五次中東戦争」と認識されている[2]。この戦いではレバノンの覇権をめぐってシリアとイスラエルが介入し、当時レバノンを拠点としていたPLOは双方から排除を受けてチュニスに移転した。

1980年代後半になると、イスラエル占領地域や難民キャンプのパレスチナ人が、PLOへの期待の薄れから自ら抵抗運動を行い、イスラエル軍との軍事衝突が頻発した(第1次インティファーダ)。

イラン・イラク戦争後の1990年、イラクはクウェートに侵攻、翌1991年にはアメリカとの湾岸戦争に突入した。アラブ諸国はアメリカ主導の多国籍軍に参加し、アラブ同士が対立する結果となった。またPLOは成り行きからイラクを支持したためにアラブ諸国からの支援を打ち切られ、苦境に立たされた。

中東和平交渉

1992年、6月のイスラエルの総選挙で和平派の労働党連合が圧勝。1993年アメリカ合衆国大統領に中東和平を重視した民主党ビル・クリントンが就任すると、前年にイスラエル首相となったイツハク・ラビンとともに、アラブ各国への根回しをしながら和平交渉に乗り出した。9月、PLOとイスラエルが相互承認した上でパレスチナの暫定自治協定に調印した。これによってヨルダン川西岸ガザ地区はパレスチナ・アラブ人の自治を承認した。協定は1994年5月に発効してパレスチナ自治政府が設立され、アラファトが初代大統領に就任したが、ラビンの和平路線は国内の極右勢力から憎まれた。また、イスラエルの存在を認めたPLOに対し、パレスチナの過激派からも不満が出た。

1994年7月、ラビンはパレスチナの国際法上の領主ヨルダンとの戦争状態終結を宣言し、10月に平和条約を結び、その直前にラビンはアラファトとともにノーベル平和賞を受賞した。

1995年3月にはゴラン高原をめぐってシリアと直接交渉を開始、イスラエル軍が段階的に撤退することとなり、ゴラン高原は国連の監視下に入った。9月、イスラエルとPLOはパレスチナの自治拡大協定に調印し、パレスチナのアラブ国家建設への道が築かれた。

1995年11月、ラビンは極右のユダヤ人青年に射殺された。また1996年2月から3月にかけ、パレスチナ過激派がイスラエルでラビン暗殺に抗議する爆弾テロを引き起こし、和平はついに暗礁に乗り上げた。PLOは4月に民族憲章からイスラエル破壊条項を削除し、和平維持を望んだ。

9月、エルサレムでアラブ系住民が暴動を起こし、イスラエルは軍をもってこれを鎮圧した。1997年、イスラエルはパレスチナのヘブロンから撤退する一方、アラブ人の住む東エルサレムにユダヤ人用集合住宅を強行着工、国連は2度の緊急総会を開いて入植禁止を決議するに至った。ところが、イスラエルで爆弾テロが起こり、アメリカは和平継続を求めて中東を歴訪した。アラブ各国は中東和平交渉の再開に賛成し、一応の安定を見た。

1999年、PLOはパレスチナ独立宣言を延期。イスラエルはシリアと和平交渉に就いた。2000年にパレスチナ村の完全自治移行を決定した。しかし、聖地エルサレムの帰属をめぐって交渉は決裂した。イスラエルの右派政党党首アリエル・シャロンはエルサレムの「神殿の丘」を訪れ、パレスチナ人の感情を逆撫でする行動を取った。これを機に、パレスチナ全域で反イスラエル暴動が起こり(第2次インティファーダ)、中東和平はここに崩壊した。アラファトは親族の汚職疑惑などでPLOやパレスチナ自治政府における求心力を失っており、テロを抑止する事が出来なかった。

2001年3月、イスラエル首相に就任した右派シャロンは、PLOや武装勢力ハマースを自爆テロを引き起こし国内を混乱させている勢力であるとみなし、その幹部殺害を始めた。また分離フェンスを設置しパレスチナ側から非難を招いた。その結果パレスチナ側は自爆テロでエスカレートさせ、中東和平は一層難しいものとなった。2004年にアラファトが死去、後を継いだマフムード・アッバースPLO議長がパレスチナ自治政府の2代目大統領に就任、テロ抑止の方針を表明した事から、ようやく和平交渉が再開された。

2006年7月、イスラエルのレバノン侵攻によりアラブ諸国がイスラエルを非難。アラブ諸国との対立の激化が懸念されている。「アルジャジーラ」などアラブのメディアは、この戦争を「第六次中東戦争」と報じたというテンプレート:要出典

2008年12月27日ガザ地区を実効支配するイスラム原理主義組織「ハマース」とイスラエルとの間に戦争が勃発(ガザ紛争)。2009年1月18日まで戦争は続いた。アラブ諸国はこの戦争を「ガザの虐殺」と呼び[3]、イスラエルに対する憎悪が高まっている。ハマースとの停戦条約は締結されておらず、また、イスラエルによるガザ地区の封鎖継続は、2010年現在に至るまで人道危機を引き起している。

2011年にはチュニジアでのジャスミン革命の影響を受けてアラブ諸国で民主化運動が活発化し、エジプトでは長期に渡り親イスラエル路線を維持してきたムバーラク政権が崩壊した(2011年エジプト騒乱)。それに代わる新政権の対イスラエル政策が再び中東の火種になる可能性もあり、今後の推移が注目される。また同年9月にはアッバース大統領がパレスチナ自治政府の国連への加盟申請を表明、2012年11月29日には国連総会においてパレスチナを「オブザーバー組織」から「オブザーバー国家」に格上げする決議案が賛成多数で承認された[4]。これに反発してイスラエル国内ではパレスチナ排除を主張する極右勢力が伸長し、緊張が高まっている。年末には長期化しているシリア騒乱における戦闘の砲弾がイスラエル領内に着弾、これにイスラエル軍が警告射撃を行う事態も発生している。

脚注・出典

  1. ジョセフ・S・ナイ・ジュニア『国際紛争』(有斐閣、2002年)220ページ参照
  2. Japan Mail Media 安武塔馬 2006年8月22日 レバノン:揺れるモザイク社会 第30回「戦争の風景8:脆い停戦」
  3. テンプレート:Citenews
  4. 国連、パレスチナ「国家」格上げ決議 米など反発 - 日本経済新聞 2012年11月30日

関連項目