マフムード・アッバース

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テンプレート:政治家 マフムード・アッバーステンプレート:Lang-arMahmoud Abbas、通称:アブー・マーゼンテンプレート:Lang-arAbu Mazen1935年3月26日 - )は、パレスチナ政治家パレスチナ自治政府大統領(第2代)[1]パレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長。日本語では、「マフムード」はマハムード、「アッバース」はアッバスとも表記される。

経歴

パレスチナ(現イスラエル)のサファド(ツファット)出身[2]。少年時代にイスラエルの建国とともに難民となり、ヨルダンに移住した。成長するとシリアエジプトで高等教育を受け、ソ連モスクワ大学院教育を修了した。

1950年代よりカタールにおいてパレスチナ解放運動に関わり、ヤーセル・アラファートを指導者とする解放運動組織ファタハの結成に参加、のちにファタハが参加したパレスチナ解放機構においてもその幹部となった。1960年代から1980年代にはアラファートと行動をともにし、1970年ブラック・セプテンバーでヨルダンを追われた後レバノンの首都ベイルートで活動、さらにイスラエルにレバノンを追われてチュニジアに活動の拠点を移した。その間、PLO国際局長として外部の様々な機関との交渉に携わってPLOの対イスラエル強硬路線放棄に関与したとされ、1993年オスロ合意に基づく交渉と調印の場でもアラファートに同行した。

和平合意に基づいてPLOをもとにパレスチナ自治区がつくられた後は、PLO執行委員会事務局長を務め、民主主義的な手続きをとって選ばれた自治政府による自治区の運営を目指す動きの中心的な人物となった。

和平プロセスが行き詰まり、2000年より始まる第二次インティファーダにおいては非PLO系のハマスなどを中心とするパレスチナ人による対イスラエル武装闘争路線・テロ攻撃が続発するが、自治政府大統領のアラファート議長やPLOの保守派がテロに対して断固とした反対姿勢を打ち出さない中、アッバースは終始イスラエルに対する過激な抵抗に対して批判的な立場を取った。

イスラエルとパレスチナ抵抗運動の攻防が泥沼化し、アラファート大統領のテロ抑止能力がすでにイスラエルやアメリカの信頼を失った2003年、アッバースは事態収拾に向けた国際社会の間接的支援を受け、3月19日に自治政府の首相に任命された。アッバース首相は組閣作業に入ったが、実権を渡すことを渋るアラファート大統領やテロ抑制に消極的なPLO内の保守派との間で交渉が難航し、1ヶ月後の4月29日、ようやく自治政府で初めての内閣が誕生した。

アッバース内閣はテロ抑制と治安の回復を掲げ、テロ抑制に対するアメリカ・イスラエルや自治政府の民主化改革に対する国際社会の期待を担い、アメリカの発表した和平のロードマップを実現することを目指した。しかし、ハマスらによるテロは一向にやまず、懸案の治安回復についても安全保障部門を首相の代表する行政機関に明渡すことを望まないアラファート大統領との対立から、事態は一層混迷を深めた。

この結果、9月6日にアッバース首相はアラファート大統領に辞表を提出、アッバース内閣は半年に満たない運命に終わった。これ以降、イスラエルはパレスチナ自治政府との和平交渉路線を再び拒否する。

首相辞任後、首相の職は議長側近のテンプレート:仮リンクに譲ったが、PLO事務局長としてパレスチナ自治政府内の重要な地位を保持しつづけた。翌2004年10月末、アラファート大統領が健康不安からフランスの病院に移送されまもなく重態に陥ると、後継者選出をはかるPLO執行委員会とファタハ執行委員会の会議を相次いで主催、暫定的にPLO議長職を代行し、クレイ首相とともにポスト・アラファート体制の最有力者となる。11月11日、アラファート大統領が死亡すると、即日開かれたPLO執行委員会で後任のPLO議長に選出された。

2005年1月9日、アッバース議長は自治政府大統領選挙に当選し、名実ともにパレスチナの代表者となった[3]。イスラエルのシャロン首相はアッバース大統領との会談に応じ、2月8日、暴力停止(停戦)に合意し、停戦の継続を条件として交渉再開を取り決めた。これを受け、アッバース大統領はハマスなど過激派に停戦の遵守を求めたが、ハマス側は「イスラエルの攻撃には反撃する」と条件を付けたため、イスラエル軍の攻撃と、それに対する報復は継続している。

自治区内に向けては、アッバース大統領はイスラエルとパレスチナの平和共存路線に向け、治安の回復や経済の再建に取り組んでいる。

2012年4月12日、東日本大震災で被災した名取市を視察した。

2012年11月2日に放映されたイスラエルの民放番組で、「私にとって(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸ガザがパレスチナであり、それ以外はイスラエルだ」「私は難民だが、現在はラマッラーに住んでいる」「(生まれ故郷の)サファド(ツファッド)を訪ねることは私の権利であるが、住むことはそうではない」などと述べ、パレスチナ難民の帰還権について大幅に譲歩するとも受け取れる発言をした。イスラエル側は11月3日、シモン・ペレス大統領が直ちに歓迎する声明を発表し、「議長の勇気ある言葉は、イスラエルが和平の真のパートナーを有していることを示している」「われわれは最大限の尊敬をもってその言葉に応えなければならない」などと表明した。しかし、パレスチナ側では「現実的」と評価する声がある一方、ハマースイスマーイール・ハニーヤ指導者は「極めて危険なものだ」「生まれ故郷への帰還権を放棄する発言を行うことは誰であっても許されない」と強く反発、PLO反主流派最大派閥のパレスチナ解放人民戦線(PFLP)も、「難民帰還は譲歩できない権利だ」と反発しており、波紋が広がっている[4]

脚注

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関連項目

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 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
ヤーセル・アラファート
ラウヒ・ファトゥーフ(暫定) |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon パレスチナ自治政府大統領
第2代: 2005年 - 現在 |style="width:30%"|次代:
現職

 |-style="text-align:center"

|style="width:30%"|先代:
発足 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon パレスチナ自治政府首相
初代: 2004年 |style="width:30%"|次代:
アフマド・クレイ テンプレート:S-ppo

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|style="width:30%"|先代:
ヤーセル・アラファート |style="width:40%; text-align:center"|パレスチナ解放機構執行委員会議長
第4代: 2004年 - 現在 |style="width:30%"|次代:
現職

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|style="width:30%"|先代:
ヤーセル・アラファート |style="width:40%; text-align:center"|ファタハ執行委員会議長
第2代: 2004年 - 現在 |style="width:30%"|次代:
現職

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    1. パレスチナ自治政府の「大統領」は、英語の President、アラビア語の رئيس (ra‘īs) の訳語である。日本語の報道では「自治政府議長」や単に「議長」とすることがあるが、実際には自治政府の元首にあたる役職である。日本政府は従来この職を「自治政府長官」と呼んできたが、2005年5月のアッバース訪日にあわせて「大統領」に呼称を変更した。
    2. Zanotti, Jim、2010年1月8日「The Palestinians: Background and U.S. Relations」『CRS Report for Congress』RL34074号(2011年1月23日閲覧)27ページ目参照
    3. 英国放送協会「Abbas achieves landslide poll win」『BBC NEWS』(2011年1月23日閲覧)参照。
    4. しんぶん赤旗 2012年11月5日 国際欄