黒澤元治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年3月20日 (水) 21:01時点におけるAddbot (トーク)による版 (ボット: 言語間リンク 2 件をウィキデータ上の d:q3325257 に転記)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

黒澤 元治(くろさわ もとはる、1940年8月6日 - )は、日本自動車評論家であり、元・レーシングドライバー

茨城県日立市にて日立に勤める技術者の息子として生まれる。1960年代から1970年代に掛けて自動車競技で活躍した後、評論家に転向した。「ガンさん」のニックネームでも知られる。2012年SUPER GTに参戦するチームSHIFTのチーム顧問に就任する。(チームには次男の黒澤治樹もドライバーとして参戦する)

年齢が2010年8月で70歳となった現在においても、ビデオマガジンなどでは高度な運転技術を披露する。

経歴

テンプレート:出典の明記

自動車競技者として

ホンダ系チームで2輪ライダーとして活動。1962年鈴鹿サーキットで初開催された、第1回全日本選手権ロードレースの50ccクラスで優勝するなどの実績がある。

1965年日産自動車と契約することによって4輪競技に転身、大森ワークスに所属した。その際、2年間ほどは、大森ワークスのリーダーだった鈴木誠一のチーム城北ライダースへ所属し、2輪モトクロスなどの二輪競技にも並行して出場した。1968年、上位チームである追浜ワークスの所属へと昇格した。1969年の日本グランプリ日産・R382で出場し優勝、高橋国光北野元とともに「追浜ワークス三羽ガラス」などと称され、日本を代表するレーシングドライバーとなった。その後は、日産ワークスドライバーとしてスカイラインGT-Rなどで活躍した。1973年、同チームから離脱、プライベートチームであるヒーローズレーシングに所属した。富士グランチャンピオンレースで連続してポールポジションを獲得し日本グランプリで優勝するなどの活躍をした。

1974年の事故

1974年、自らのチームである「クロサワ・エンタープライズ」を設立、チームオーナー兼ドライバーとしてレースに出場した。しかしながら同年6月2日、富士スピードウェイで大事故(黒澤の運転と関連する多重クラッシュによって、鈴木誠一風戸裕のドライバー2人が死亡)が発生、その責任を問われてレース関係者から糾弾されるとともに、警察書類送検された。日本自動車連盟(JAF)は同年10月に開かれたスポーツ委員会において5年間の資格停止処分を発表し、中央審議委員会において出場停止期間が1年3ヶ月に短縮されるものの、これを受けた黒澤は競技ライセンスを返上し、一時は現役を去った。出場停止期間明けの1975年にレースに復帰したが、かつてほどの強さを示すことはできず、レースの第一線からは退き、以後はレース活動と平行して従事したブリヂストンの市販スポーツタイヤの開発テスターへと活動の中心を移した。

後に、友人である作家五木寛之の薦めでモータージャーナリスト活動も始める。概ね評価は辛口であるが[1][2]、ホンダに対しては舌鋒が甘いことが指摘されている。比較的操縦が難しいといわれるホンダ・NSXのオーナー向けドライビング講習会、NSXオーナーズ・ミーティングの特別講師を1991年の開設以来担当し続けている。ビデオマガジン『ベストモータリング』では、テストドライバーとして中心的な役割を果たした。

著作

  • 『ドライビング・メカニズム―運転の「上手」「ヘタ」を科学する』(2000年、勁草書房)

愛車

1990年の発表以来からホンダ・NSXを乗り継ぎ、NSX-Rも所有している。またポルシェ・カレラGTも購入している。

家族

実子である黒澤琢弥黒澤治樹黒澤翼は何れもレーシングドライバーである。しかしながら黒澤自身、息子たちに自動車競技を勧めたことは特になかったとのこと。

脚注

  1. スバルインプレッサの 22B-STIバージョンに試乗した際に、「ユーザーを馬鹿にした単なるオタク車。キチンと車を作って欲しい」と述べ、マツダRX-7(FD3S)のタイプRZ(初期)に試乗した際は、「タイヤがプアになって、ボディやサスペンションの荒が目立たなくなっただけ。そんなにタイヤを軽量化したいならタイヤを細くすれば良い。タイヤの重要性を理解していない」と述べている。
  2. また「ターボや4輪駆動、ロータリーエンジンは好まない」と、同ビデオで何度も発言している。

外部リンク

テンプレート:フォーミュラ・ニッポン歴代チャンピオン テンプレート:Asbox