高田早苗
高田 早苗(たかた さなえ、安政7年3月14日(1860年4月4日) - 昭和13年(1938年)12月3日)は、明治・大正・昭和期の政治家、政治学者、教育家、文芸批評家。衆議院議員、貴族院議員、早稲田大学総長[1]、文部大臣などを歴任した。号は半峰。妻は前島密長女。
略歴
安政7年3月14日(1860年)、江戸・深川(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の共立学校や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、明治15年に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。法学者の小野梓と知り合い、大隈重信の立憲改進党に加わった。また、大隈とともに東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも参加し東京専門学校評議員・講師となり、早稲田の運営に力を注いだ。1887年から1890年末まで読売新聞主筆[2]。1901年、法学博士。1907年、早稲田大学が総長・学長制を敷くと、初代学長に就任(初代総長は大隈重信)。大正12年(1923年)5月から昭和6年(1931年)6月まで同大総長[1]。 1928年、帝国学士院会員。
教育者として早稲田大学の運営に携わる間に、明治23年(1890年)、第1回衆議院議員総選挙に埼玉二区(現川越市)から立候補し全国最年少で当選、立憲改進党系の政党に参加し、通算6期務めた。主筆退任の時期は第一帝国議会召集の時期に重なる。1897年第2次松方内閣(大隈と連立した松隈内閣)で外務省通商局長、1898年第1次大隈内閣(隈板内閣)で文部省参事官、高等学務局長、参与官兼専門学務局長となる。1897年、外務省に入るに際して株主として経営に参画していた読売新聞からの退社を広告した[3]。1903年12月の議会解散以後は政界から暫く離れた。
1915年5月19日貴族院議員に勅撰され[4]、また、8月には第2次大隈重信内閣の内閣改造で文部大臣として入閣した。
早稲田大学の式服や式帽、校旗などを定めることを発案し、職制なども定め、また、早稲田大学教旨の制定を発議した[5][6]。 現在、早稲田大学にある高田早苗記念研究図書館は、高田の早稲田大学への功績をたたえて名づけられた。
おもな著書
- 『英国政典』
- 『代議政体論』
脚注
関連項目
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- ↑ 1.0 1.1 内田満 『政治の品位』 東信堂、2007年、170頁。
- ↑ 読売新聞1910年(明治43年)9月25日、市島謙吉「予が在社時代(一)度々の発行停止」に、「自分の貴社に迎へられ主筆の席を汚したのは廿三年の末頃かと覚えます」「高田君は株主を兼ねた主筆でありましたが廿三年国会が開けて議員となり政治に奔走が忙はしく社務を日々見ることが出来ぬと云ふ所から自分が代つたのであります」とある。
- ↑ 読売新聞1897年(明治30年)4月11日「高田早苗氏の退社」は、高田早苗氏は「此度外務省通商局長に任ぜられしに付自今全く本社と関係を絶つこととなれり」と報じた。同1905年(明治38年)4月8日、一万号記念号での「祝辞」で高田は「既往七年の間に於て、吾れは唯社員たるに止りて、又稿を寄せず、特に昨年末以降は専ら身を育英の事業に委ぬるの必要より全然社員たるの関係をさへ絶つに至れり」と述べた。宮武外骨・西田長寿『明治新聞雑誌関係者略伝』みすす書房<明治大正言論資料20>、1985年の「高田早苗」の項は、「『読売新聞』との密接なる関係は明治三五、六年までであるようだが、明治二三、四年頃から東京専門学校出身者を多く同紙に送っていることは注目せねばならぬ」と評する。
- ↑ 『官報』第838号、大正4年5月20日。
- ↑ 佐藤能丸 『志立の明治人・上』 芙蓉書房出版、2005年、150-151頁。
- ↑ 佐藤能丸 『異彩の学者山脈』 芙蓉書房出版、1997年、24頁。