高木鑑房

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高木鑑房(たかぎ あきふさ 永正元年(1504年) - 天文23年(1554年))は、戦国時代武将少弐氏の家臣。官位能登守。父は龍造寺胤家の養子(猶子)となった高木盛家(もりいえ)またはその実父高木満兼(みつかね)とされる(年代的に前者が正しいものと思われる)。子は高木盛房(もりふさ)、大栄入道。

『北肥戦誌』によると鑑房は、「勇力万人に優れ、早業は江都の素早さをも超越し、打物(剣・太刀)を使えば樊噲長良にも恥じず、その上に魔法を習得しており、或る時は闇夜に日月を現し、或る時は酷暑に雪を降らせた」とある。

天文4年(1535年)に少弐資元が自害すると、少弐氏の家臣をやめて浪人となった。一時、大友義鑑の家臣となり偏諱(鑑の字)を賜るが、資元の子・少弐冬尚が少弐氏を再興すると、旧領に戻って復帰した。

天文20年(1551年)に、土橋栄益龍造寺隆信を追い落とそうとするとこれに加担、だが天文22年(1553年)に隆信が復帰の軍を起こすと、番として入っていた飯盛城を攻め落とされ精町へ退去する。天文23年(1554年)、隆信による討伐軍に討ち負け高木城へ退くと、嫡男・盛房を人質に出して和睦、自らは杵島郡佐留志の前田家定を頼った。だが或る朝、外から戻って従者に縁側で足を洗わせていたところを、隆信に寝返った家定に首を打ち落とされた。『北肥戦誌』には、鑑房は首のないまま自らの刀を抜くと、従者を斬り殺して、奥の間へ切り行ったが、家定の家臣数十人が槍で刺し貫き組み伏せたと記述されている。テンプレート:Asboxテンプレート:Japanese-history-stub