国王至上法

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国王至上法(こくおうしじょうほう、Act of Supremacy)は、1534年テューダー朝イングランドヘンリー8世により発布された法令。首長令首長法とも呼ばれる。

背景

ヘンリー8世は王位継承者としての男子を望んでいたが、王妃キャサリン・オブ・アラゴンスペイン出身)との間に子供は望めなかった。そうした中、キャサリンの侍女でヘンリー8世の愛人でもあったアン・ブーリンの懐妊が明らかとなり、出産までに正式にキャサリンと離婚しない限り、アンが妊娠している子が正式な継承者として認められないという事態が発生した(アンが出産したのは結局は女子で、のちのエリザベス1世であった)。このため、キャサリンとの離婚を図るが、スペインとの関係悪化を懸念した当時のローマ教皇クレメンス7世は、この離婚を認めなかった。また、かねてヘンリー8世は、国内の教会が王国の法と対立するような法を定めていることに反発を抱いていた。こうしたことから、ヘンリー8世とローマ教皇の対立は決定的なものとなった。

首長令の制定

1534年11月、宗教改革議会の第六会期において、イングランド国王を「イングランド国教会の地上における唯一最高の首長」と宣言する国王至上法が定められた。しかし、教義内容はカトリックのものとほとんど変わらなかった。

なお、この国王至上法が制定される前に王位継承法が定められ、アン・ブーリンとの間の子が正統な王位継承権を持つことが確認された。この法に対する宣誓を拒否したのがトマス・モアであった。このことでトマス・モアは裁判にかけられ、1535年に刑死することになる。

その後の展開

イングランド国教会の成立により、カトリックからの分離独立が確定した。その後、ヘンリー8世が教会や修道院の土地・財産を没収し、安く分与したことで、王室の財源を潤して王権の強化をもたらすこととなった。また当時、人口が飽和状態となっていたロンドンでは、この教会・修道院の土地没収がさらなる都市開発の契機にもなった。

国王至上法の制定は、イングランドにおける宗教改革の重要な契機でありながらも、極めて政治的性格の強いものであった。そのため、教義内容をめぐる議論、そもそもの国教会の正統性などについては、エドワード6世メアリー1世、エリザベス1世の時代に至るまで問題となった。

参考文献

  • 柏野健三『社会政策の歴史と理論 改訂増補版』ふくろう出版、1997年