陳宮
陳 宮(ちん きゅう、? - 建安3年(198年))は、中国後漢時代末期の武将。字は公台。兗州東郡武陽県(山東省と河南省の境目)の人。
生涯
勇敢で信念を曲げない人柄であり、地元の顔役として若くして多くの名士達と交友を結んだ[1]。
天下が動乱の時代に入ると、まず曹操に仕えた。初平3年(192年)、兗州刺史劉岱が黄巾軍に敗れて戦死すると、「覇王の業」のために兗州を傘下に治めるよう曹操に進言した。曹操の同意を得た陳宮は、先行して兗州に赴き、別駕や治中などを説得して回った。この結果、済北の相鮑信らが陳宮の意見に賛同したため、曹操を兗州牧に迎えることができた。
曹操への叛逆
興平元年(194年)、曹操は徐州の陶謙を攻撃すると、陳宮に東郡の守備を委ねた。しかし、曹操軍の大部分が兗州を離れた隙を衝き、陳宮は曹操への叛逆を目論んだ。陳宮は、陳留太守張邈、その弟の張超、従事中郎の王楷・許汜とともに反乱を計画し、呂布を盟主として迎え入れた。なお張邈の反乱の動機は、曹操が袁紹と同盟して自分を攻撃しようとしているのではないか、という不安だったとされている[2]。しかし、陳宮本人の動機は曹操への疑いを抱いたとあるのみで[3]、詳細が不明である。
張邈らが呂布を迎え入れて曹操に反乱を起こすと、兗州の郡県のほとんどが反乱側に付き、曹操に味方したのは鄄城・范・東阿だけであった。この3城は荀彧・程昱・夏侯惇・曹洪・棗祗らが守り抜いた。陳宮は自ら軍を率いて東阿を攻撃したが、程昱が倉亭津の渡しを断ち切ったので行軍が遅れた。このために東阿の防備が固まってしまい、攻撃が失敗した。
興平2年(195年)、曹操は兗州へ再度戻り、呂布軍の薛蘭・李封を鉅野で撃破し、これらをすべて斬った。陳宮は呂布に従い、東緡へ出撃して曹操軍を攻撃したが、曹操軍の伏兵に遭って敗北した。その後も呂布軍は曹操軍の前に敗北を重ね、ついに陳宮は呂布とともに兗州から逃走し、徐州の劉備を頼って落ち延びた。
建安元年(196年)、呂布は劉備を駆逐して徐州を手に入れたが、まもなく配下の将である郝萌が反乱を起こした。この反乱は高順により鎮圧されたが、郝萌の下から寝返り帰参した曹性が「反乱の黒幕は袁術と陳宮」であると呂布に対し供述した。このため陳宮は顔を赤らめた。しかし結局呂布は、陳宮が大将であることを理由として、これを不問にした[4]。
最期
建安3年(198年)冬、曹操が彭城まで攻め寄せてくると、陳宮は呂布に対し直ちにこれを攻撃するよう進言した。しかし、呂布は曹操軍が下邳まで攻め寄せてくるのを待つとして、これを容れなかった。呂布は下邳まで曹操軍が来たところで城外へ出撃したが、敗北して成廉を捕虜にされてしまった。下邳城内に追い込まれた呂布は、曹操からの勧告もあって降伏しようとしたが、陳宮やその同僚たちにこれを押し止められた。陳宮は呂布に対し「曹操に降伏するのは、石に向けて卵を投げるようなものです」などと諫言している。
陳宮は、局面を打開しようと呂布に献策するなどしたが、採用されることはなかった。同年末、呂布の縁戚である魏続[5]・侯成・宋憲らが反乱を起こし、陳宮を捕縛して曹操に寝返った[6]。これにより呂布も戦意を喪失し、曹操に降伏した。
曹操が面前に引き立てられた陳宮に「なぜこのようなことになったのか」と問うと、陳宮は呂布を指して「この男が私の言うことを聞かなかったために、こうなったのだ」と答えた。さらに曹操が「老母や娘をどうするつもりか」と尋ねると、陳宮は「天下を治める者は人の親を殺したり、祭祀を途絶えさせたりしないものだ。母の生死は貴方の手中にあり、私にはない」と言った。このため曹操は、涙ながらに刑場に向かう陳宮を見送った。しかし陳宮は振り向かなかったという。こうして呂布・高順らと共に絞殺され、許の市において晒し首にされた。曹操は彼の老母ら家族を引き取って厚遇し、娘も嫁ぐまで面倒を看た[2][3]。
三国志演義
小説『三国志演義』では、中牟県の県令として登場する。董卓暗殺に失敗し洛陽から逃げ出した曹操を捕まえている。しかし一度は捕らえるも、曹操の志に感服し共に逃亡する。
しかし曹操と陳宮は、途中で立ち寄った曹操の知人の呂伯奢の家で、呂伯奢の家族に殺されるのではと疑心暗鬼にかられ、呂伯奢の家族を殺害する。さらに家から逃げ出す途中、曹操は何も知らない呂伯奢をも、口封じのために殺害してしまう。そのあまりの身勝手さに呆れた陳宮は、彼の寝込んだ隙に暗殺しようと考えるが思いとどまり、一人で東郡へ去っている[7]。
その後、陳宮は東郡で従事を務め、徐州の陶謙とも交流を持つ。曹操が父の仇を討つために徐州に攻め込もうとすると、陳宮は陶謙のために曹操を諫止しようとするが、逆に罵られて追われ、陳留の張邈を頼っている。そして、史実通りに張邈らとともに呂布を擁立し、兗州を曹操から奪っている。
呂布が曹操に敗れて徐州の劉備の下に逃れると、これに随従していた陳宮は、呂布に進言して劉備を駆逐し、徐州の支配者とさせる。さらに陳宮は、袁術が派遣した使者韓胤と結託し、曹操らに対抗しようと図っている。しかし、密かに呂布の駆逐を狙う陳珪・陳登父子に阻まれ、韓胤は呂布により曹操に引き渡され処刑されてしまう。その後も陳珪父子に行動を妨害されたため、陳宮は呂布に陳父子を退けるよう諫言するが、容れられず嘆息している。
曹操が徐州へ進攻してくると、陳登の裏切りにより、呂布・陳宮は下邳に追い詰められる。曹操の勧告に応じて降伏しようとする呂布を押し止め、陳宮は弓矢で曹操の本陣傘を射抜いている。さらに「掎角の勢」を進言して曹操軍を破ろうとするが、呂布の妻厳氏が泣いて呂布を止めたため、実行を取り止めている。敗北後の刑場での曹操とのやり取りは、史実とほぼ同様である。
人物像
当時、智謀の士として名声が高かった陳宮であるが、曹操の参謀荀攸は下邳城を包囲した際「陳宮は智謀こそあるが、決断が遅い」と評している。
『三国志』呂布伝の注に引く「典略」によれば、陳宮は呂布のために策略を立てたが、呂布がいつも陳宮の策略に従わなかったとされる。その事例としては、下邳篭城戦の際のやり取りが挙げられる。陳宮は、呂布が城外に布陣し、自らが城内に留まったうえで曹操の背後を攻撃し、曹操が城を攻めたら、呂布に城外から救援させるよう献策した。しかし、呂布の妻が「曹操が陳宮を我が子のように優遇していたのに、それでも陳宮は裏切りました」との旨を呂布に述べたため、呂布は陳宮の策を採用しなかった[8]。
また、陳宮は高順と深刻な不仲であった。同じく下邳篭城戦の際に、呂布は陳宮と高順に下邳城を守らせ、騎兵を率いて曹操軍の糧道を断とうとしたが、呂布の妻が陳宮と高順の不仲を指摘したため取りやめている[4]。
史実上の彼の行動には不明な点が多く、各創作物では知謀に長けた策士という人物像を基調とし、様々な陳宮像が描かれている。