日顕
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日顕(にっけん、1922年12月19日 - )は、日本の宗教家である。日蓮正宗総本山大石寺第67世法主。立正大学日蓮学科卒。阿部姓。越洋阿闍梨。1979年(昭和54年)登座。
2005年(平成17年)12月4日、大石寺で行われた広布唱題会の席で「今年中に法主を退座する」と表明。大石寺法主の隠居は1956年(昭和31年)の64世日昇以来である。
略歴
- 1922年(大正11年)12月19日 - 東京市本所区(現在の東京都墨田区)常泉寺で総本山第60世日開の子息・信夫(しのぶ)として誕生。母親は芸者の彦坂スマである。後に日開はスマを出家させ「妙修」と名乗らせている。妙修は日蓮正宗最後の尼となった。
- 1928年(昭和3年)8月28日 - 池袋常在寺住職桜井仁道を師範として得度(出家の儀式)し信雄(しんのう)と名乗る。同年6月には父親の日開が登座している。
- 1943年(昭和18年)11月21日 - 父親である総本山第60世日開が遷化(死去)。
- 1943年(昭和18年) - 立正大学日蓮学科を卒業。
- 1944年(昭和19年) - 長男・阿部信彰(宗務院布教部長、東京・常在寺住職)が誕生。
- 1943年 - 1945年 - 学徒出陣。海軍中尉として復員。
- 1952年(昭和27年) - 初めて他家から弟子をとり、この時弟子となったのが八木日照(道号は信瑩、現・総監)である。八木日照は妙信講解散のときに顰斥となり、後に復帰した八木直道の養子である。
- 1947年(昭和22年) - 本行寺(東京都墨田区)の住職となり、1963年に平安寺(京都市右京区)設立に伴い初代住職として赴任、その後、常泉寺(東京都墨田区)の住職を歴任。
- その間、1961年に宗務院教学部長、1979年春に総監になる。
- 1974年(昭和49年)1月18日 - 母親・妙修が死去。
- 1978年(昭和53年)4月15日 - 66世日達より血脈相承の内付を受けた。
- 1979年(昭和54年)7月22日 - 日達の急な遷化(死去)に伴い、あらかじめ与えられていた「日慈」の日号が重役・早瀬日慈(68世・日如の父、元総監)と同じため日顕と改め、日蓮正宗法主兼管長・大石寺代表役員(住職)に就任。
- 1981年(昭和56年)10月 - 宗祖日蓮大聖人700回遠忌法要を執行。大石寺塔中蓮蔵坊を再建新築。
- 1982年(昭和57年)12月19日 - 還暦(60歳)を迎える。
- 1984年(昭和59年) - 大石寺塔中寂日坊再建新築。
- 1986年(昭和61年)7月 - 大石寺塔中了性坊再建新築。
- 1988年(昭和63年)10月 - 大石寺六壷再建新築。同月、大石寺塔中総一坊創設。
- 1989年(平成元年)4月 - 大石寺塔中報恩坊(1873年に廃寺)を再興。
- 1990年(平成2年)4月 - 大石寺塔中総二坊創設。同年10月、大石寺開創700年記念法要を執行。
- 1992年(平成4年)12月19日 - 古稀(70歳)を迎える。
- 1994年(平成6年)7月 - 大石寺塔中広布坊創設、地涌六万大総会を開催。
- 1998年(平成10年)3月 - 大石寺客殿を再建新築。
- 1998年(平成10年)4月 - 大石寺正本堂から戒壇本尊を奉安殿へ遷座し、正本堂を解体。
- 1999年(平成11年)12月19日 - 喜寿を迎える。
- 2002年(平成14年)4月-10月 - 宗旨建立750年記念法要を執行。
- 2002年(平成14年)10月 - 大石寺に奉安堂を建立。
- 2002年(平成14年)12月19日 - 傘寿(80歳)を迎える。80歳超の現役法主は史上初。
- 2005年(平成17年)12月4日 - 正式に退座を発表。1日に総監の早瀬日如を学頭に任命。
- 2005年(平成17年)12月12日 - 早瀬日如に法を付す。
- 2005年(平成17年)12月15日 - 法主を退座、隠尊の身となる。翌日に座替り式
- 2012年(平成24年)12月19日 - 卒寿(90歳)を迎える。
著書
正信会破門
1980年(昭和55年)7月4日、正宗の半数に近い僧侶が集まって創価学会(当時はまだ在家の信徒団体であった)を批判するため正信会を発足させた。以前(1977年)、創価学会が独自の教義で、宗門からの独立を企てたとき、第66代法主・日達時代に学会を厳しく批判したが、創価学会が自らの非を認め、謝罪したため一時はゆるしたこともあったが、うやむやであった。次の阿部日顕が貌座に自己主張して、就任すると、創価学会のあとおしによって、創価学会批判派の日達上人系で多く構成される正信会(日達上人の弟子が大部分であった)に対し創価学会を批判することを禁止した。しかし正信会が同年8月24日、阿部日顕のひきいる宗門側の禁止勧告を無視し、第5回全国檀徒大会で創価学会名誉会長池田大作を批判したため、同年9月24日、阿部宗門は創価学会のあとおしをうけて、正信会僧侶201名が降格などの処分に、同年10月3日には、正信会僧侶5名を擯斥処分(破門)にした。それ以降も正信会は宗門に対し日顕の不相承の疑義を主張、抗議を繰り返し、創価学会に対して同類として批判を止めなかった。第67代法主・日顕に対しては「日達上人からの相承の確たる証拠がなく、自己申告であったため、管長の資格が無い」として地位不存在確認の裁判を起こした。阿部宗門はこの時から創価学会のさらなるあと押しを得て、翌1982年(昭和57年)にかけて正信会僧侶百数十名を擯斥処分にした。この数は同宗教師(住職になる資格を持つ僧侶)の約二分の一、三分の一に当たり、文字通り日蓮正宗一大分裂の危機にさらされた。この時の擯斥処分は阿部派の法主、日顕が、のち、同派の早瀬日慈に内部相承したため、したがって、他派閥である旧法主方の弟子たちが多いため、現在まで解除されていない。正信会側(旧日達上人のいわば申し子の弟子たち)は、阿部日顕が大石寺法主詐称をしているとの立場をいまだにくずしておらず、それが二代続いているとする。したがって、現在、当時、詐称の法主が下した破門が有効かどうかは、立場の相違により、法律的にうんぬんすることが出来ず、それぞれの団体の立場によってそれぞれが主張している現状である。裁判所が下せる判断は、詳細はうんぬん出来ず、ともに、日蓮正宗の名を冠することを許されているのみである。つまり、総本山大石寺阿部日顕早瀬日如派も、日蓮正宗であるが、正信会もまた日蓮正宗正信会と名乗ることを許されている。 因みに、一枚岩といわれた時代には、日蓮正宗は、1500万とも1800万ともいわれたが、分裂以後は、総本山大石寺側の信徒数は、約30万人に激減し、正信会側もこれより少なくなっている。大多数は、創価学会にとどまっているようであるが、公称人数を公表していないので、一般日蓮宗にも、移動したり、休眠信徒となった人々もいるようであり、これらの人々に対する折伏という名の勧誘行為が、総本山大石寺日顕派では突出している。他の派では、これらの勧誘行為は以前にくらべると、それほど先鋭化していない様子である。また、同じく日蓮正宗系で、妙信講というのがあるが、これについては、別に項目がある。彼らもまた日蓮正宗を名乗ることが出来る。
創価学会との対立
創価学会破門
1990年(平成2年)11月16日、宗門は、衛星放送を通して行われた、創価学会本部幹部会における名誉会長池田大作の講演を、録音した学会員によって持ち込まれたテープから、名誉会長が宗門ならびに日顕上人の批判を行ったことを突き止めた。
宗門は真意を確かめようと同年12月13日、学会との連絡会議の席上「お尋ね」文書を学会に出したが、学会は受け取りを拒否、そこで12月16日、「お尋ね」文書を学会本部に送付、創価学会からは回答ではなく、「お伺い」文書が宗門に送られてきた。これを受けて宗門は12月27日、宗会を開き宗規を改定し、法華講本部役員に任期を導入したことで、法華講総講頭の池田大作を初め法華講首脳全員が1990年(平成2年)末に一旦その資格を失うこととし、在家信徒団体を指導・教導する立場として、再任の意向を持って、関係修復の機会を与えたが、それ以降、創価学会は『聖教新聞』や、特に『創価新報』という内部向けの機関紙で更なる宗門批判を行い続けた。
その後、従来の信仰姿勢に立ち返るよう、宗門から学会側に訓戒が重ねられたが、逆に学会側が宗門批判をエスカレートさせた為、宗務院は翌1991年(平成3年)11月28日、創価学会を破門処分とした。
ただし、その後も1997年(平成9年)11月30日まで、創価学会の末端会員の信徒資格を認め、総本山への参詣も許可し、信仰の筋目に復帰することを促した。これによって、創価学会から一部の人が宗門・法華講に戻った。
シアトル事件・クロウ事件
創価学会では「シアトル事件」、日蓮正宗では「クロウ事件」と呼ばれている。1992年(平成4年)6月17日以降、『創価新報』・『聖教新聞』や正信会・顕正会の機関紙が「第67代法主・日顕が1963年に法務でシアトルに出張した際に、現地の売春婦と料金トラブルを起こして警察に通報され拘束を受けた」、「現地在住の学会員、ヒロエ・クロウが保釈手続きを行った」などといった話を書き立て、第67代法主・日顕を僧にあるまじき行いをしたとして痛烈に批判した。日蓮正宗側では、そのような事実はまったく存在しないと否定し、第67代法主・日顕ら宗門はクロウを「嘘つき」、「偽証者」と批判した。
■アメリカにおける裁判(クロウ門前払い)
1992年(平成4年)9月、クロウはロサンゼルス上級裁判所に第67代法主・日顕の批判が 名誉毀損罪に当たるとして、60億円の損害賠償請求の訴訟を起こした。しかし、この訴訟が10万人以上の日本の信者からの寄付金で支援されていることなどから、第一審の判事と控訴審の裁判長からもクロウは「原告は、名目上の原告にすぎず、この訴訟は、創価学会が阿部日顕上人を日蓮正宗法主の座から追い落とすために提起したものである」とし、裁判所における管轄権を認めず、クロウの訴えを事実上の門前払いにした。このため、クロウは連邦最高裁判所への最終上告ができなくなった。
■日本における裁判(第一審)
日本においては、宗門側がクロウを名誉毀損罪で訴えた。裁判では当時、現場にいたとされる警察官スプリンクルが、創価学会側の証人として出廷したにもかかわらず、「スプリンクルから売春の事実を聞いた」というクロウの証言を否定するなど、数々の矛盾する証言をしたり、スプリンクル自身、事件当時は軍役に服するため、警察官としては休職中であったことが複数の公文書から明らかになった(クロウ側は軍務が終わった夜に警官として勤務したと主張した)[1]。また、クロウの代理人から、調査員兼コンサルタントという名目で、月4千ドル(約40万円)で雇われていことも発覚し、本人もその事実を認めた。証拠となるような公的文書は裁判で提示されることがなかった。創価学会側の主張の唯一の根拠となっていたヒロエ・クロウは、宗門側の最終反対尋問を目前に病死した。第一審の東京地裁では判決の直前に裁判官が二度変わった末、2000年(平成12年)3月、クロウの証言の「具体性」、「迫真性」を評価し、宗門側の請求を棄却した。
■日本における裁判(第二審=和解=第一審無効)
控訴審では、2002年(平成14年)1月、東京高裁は「40年も前の事実を確定することに格段に多くの障害がある」等の理由による勧告によって最終的には宗門側が訴えを退け、調停に至った。和解内容により創価学会と日蓮正宗とは、この事件を題材にした互いの攻撃を取り止めることになり、和解以降それぞれが事件に関する書籍や記事などの出版を控えることになっている。その中で、創価学会は「シアトル事件・クロウ事件」を材料に第67代法主・日顕および日蓮正宗を攻撃することを禁じられているのに対し、第67代法主・日顕および日蓮正宗は事件が虚偽捏造であることを主張し続けることを認められており、クロウ勝訴とした一審判決も無効とすることが合意された。
■関連訴訟
1995年(平成7年)1月、創価学会は、FBIのコンピューターにシアトル事件・クロウ事件についてデータが残っていたと『聖教新聞』や『創価新報』で報道したが、同年7月1日、アメリカの司法省がFBIも連邦検事事務総にもそのような事実はないと公式に完全に否定。そこで、日蓮正宗側が「創価学会はFBIのコンピューターをハッキングしたからそういうことを言えるはずだ」と批判したところ、これに対して創価学会側は「コンピュータをハッキングしたという報道は事実無根」として日蓮正宗を提訴し、敗訴した日蓮正宗側は賠償金を支払ったが、実際は「FBIハッキング報道」が名誉毀損になり「シアトル事件」自体は和解になったのであり、第67代法主・日顕自身が罪に問われた訳ではなく、創価学会が勝訴した訳ではない。
■まとめ
和解条項によって、学会側はシアトル事件で第67代法主・日顕を批判すること自体が禁じられたが、宗門側は学会に対する名誉毀損にならない限り、それを事実でないと否定することができるようになった。これによって宗門側では「和解」であると公表している一方、創価学会側では機関紙等で大勝利と掲載している。[2]
創価学会による偽造写真事件
テンプレート:Main 1992年(平成4年)11月、創価学会が自らの機関紙『創価新報』が写真を偽造し第67代法主・日顕があたかも「芸者遊び」をしているという内容を掲載、淫乱・放蕩三昧をしているなどと批判した。いわゆる偽造写真事件である。 創価新報に掲載された写真にはいくつかの重大な疑問点があり写真の鑑定をプロのカメラマンに依頼したところ、鑑定の結果、写真は合成であることが明らかとなったため機関紙『妙観』『慧妙』で日時と場所を明らかにするよう求めた。その後、創価学会は釈明したが釈明後も当事者から違う証言が飛び出したため学会側のウソが発覚。しかし学会の謝罪は一切行われなかった。そのため日蓮正宗側は、翌1993年(平成5年)5月、創価学会と名誉会長・池田を名誉毀損罪に当たるとして謝罪広告と損害賠償等の支払いを求めて提訴した。
第1審の東京地裁(1999年12月6日)の判決は、報道が第67代法主・日顕への「人身攻撃」であり、「その違法性は社会通念上けっして容認できない程度に至っていることは明らか」と第67代法主・日顕を含む宗門に対する名誉毀損に当たるとし、名誉会長・池田と爽か学会に対し、謝罪広告の掲載と総額400万円の損害賠償を命じた。
第2審の東京高裁(2000年12月5日)は写真についても第67代法主・日顕が「一人が酒席で芸者遊びをしているとの、実際の情況とは異なった印象を抱かせるのに十分であり、これをもって客観的な報道ということはできず、修正の限度を超えている」と捏造を認め、「正当な言論や評論の域を超え、単に阿部日顕を揶揄し、誹謗、中傷するものとして、違法性を有するものというべきである」と名誉毀損に当たると判断しながらも、第67代法主・日顕が原告に名を連ねていないことから、「報道は日顕個人に向けられたものであり、日蓮正宗・大石寺に対する不法行為に該当するということはできない」とし、謝罪広告の掲載は命令したが損害賠償の請求は不要との判決を下した。日蓮正宗側の上告から3年後、最高裁判所は憲法違反等の上告理由に当たらないと宗門側の上告を棄却した。
脚注
外部リンク