長尾晴景

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テンプレート:基礎情報 武士 長尾 晴景(ながお はるかげ)は、戦国時代の武将。越後戦国大名、越後守護代である。

生涯

家督相続

越後国守護代長尾為景の子として生まれ、幼くして主君の越後守護上杉定実猶子となる。[1]定実の娘を娶ると共に偏諱を受け「定景」(さだかげ)と名乗る。のちに将軍足利義晴から偏諱を与えられ「晴景」(はるかげ)に改名。天文5年(1536年)に父・為景の隠居により、家督を譲られて春日山城主となるとともに越後守護代を補任された。

父の為景と異なり穏健な政策をとり、領内の国人との融和を図った。越後における争乱を鎮めることにはある程度成功したが、主君である越後守護の上杉定実伊達氏からの養子縁組問題(天文の乱)で越後国内が乱れた際に中条氏らを抑えることはできなかった。伊達氏の内紛に助けられ守護上杉家の復権は阻止したものの、黒田秀忠などが反乱を起こし越後国内の情勢はますます不穏になる。

実弟・景虎の台頭

そのような情勢の中、城下の寺院へ入門していた弟の虎千代(景虎、後の上杉謙信)が還俗して栃尾城主となり、反乱を鎮め家中での名声を高めると、家臣の一部の間で景虎の擁立を望む(晴景の嫡子・猿千代は早世していた)ようになり、長尾家は家中分裂の危機を迎える。

そこで天文17年(1548年)には、定実の仲介のもとに、景虎に家督を譲って隠居する。天文22年(1553年)2月10日に死去した。享年42。

病弱なうえ戦よりも芸事を好んだ人物であったことが謙信の書状ほか諸史で伝わっている。また、後年一部の史書には景虎が晴景を殺害して家督を奪ったとする記述もあるが、多くの史書と食い違いがあり、創作と見るのが一般的である。

脚注

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テンプレート:越後長尾家歴代当主
  1. 日本随筆大成」に拠ると、定実が為景の姉妹を娶った際に、為景の嫡子・六郎(のちの晴景か)を猶子とする約定を取り交わしたと云われる。