鋸挽き
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鋸挽き(のこぎりびき)は、死刑の一で、罪人の体を鋸で挽く刑罰である。中世および近世の日本で行われた。また、ヨーロッパや中国(「五車韻瑞」、「塵添壒嚢鈔」11)でも行なわれた。この項では、かつて日本で行われていた鋸挽きについて説明する。西洋の鋸引きについては刑罰の一覧を参照。
天暦年間、厨子王丸(対王丸とも)が丹後の領主となって、由良の湊の山椒大夫を捕らえ、竹鋸でその首を断たせたという伝説がある。(安寿と厨子王丸参照)
復讐刑としての意味合いも強く、縛り付けた罪人の首に浅く傷をつけ、その血をつけた鋸を近くに置いて、被害者親族や通行人に一回か二回ずつ挽かせ、ゆっくりと死なせる刑罰であり、江戸時代より以前には実際に首を鋸で挽かせていた。 テンプレート:要出典
だが、江戸時代になると形式的なものになり、「御定書百箇条」において正刑のひとつ、且つ最も重い死刑として掲げられた。すなわち、その七十一に、テンプレート:Quotationとある。日本橋の南の広場に、方3尺、深さ2尺5寸の穴晒箱という箱をなかば土中に埋め、箱に罪人を入れ、首だけが地面から出るようにした上で3日間(2晩)見せ物として晒した(穴晒)。その際、罪人の首の左右にタケの鋸と鉄の鋸を立てかけておいたが実際に鋸で首を挽くことはなく、晒した後は市中引き回しをしたうえで磔とした。元禄時代に罪人の横に置かれた鋸を挽く者がおり、慌てた幕府はその後、監視の役人を置くようにしたという。
江戸時代に科されていた6種類の死刑の中で最も重い刑罰であり、主人殺しにのみ適用された。 この刑は明治元年11月13日の達で、火刑とともに廃された。