野田城 (三河国)
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テンプレート:Infobox野田城(のだじょう)は、愛知県新城市豊島にある城。別名「根古屋城」、「三河野田城」とも呼ぶ。1505年(永正2年)に菅沼氏が築城した支城である。最寄り駅はJR飯田線野田城駅。下車徒歩15分。
城の構造
本丸、二の丸、三の丸、廓、侍屋敷が直線状に(=連鎖式)位置し、 城の両隣には淵があり天然の堀として使われた。
歴史
- 1508年 菅沼定則によって築城され、居城とされた。定則の子・菅沼定村、孫・菅沼定盈らも居城とした。
- 1561年 桶狭間の戦いの後、今川氏を離反した定盈は、今川勢に攻囲され開城退去。
- 1562年 定盈が夜襲で奪回するも、損壊の激しい野田城は修築に刻を費やされた。定盈は、仮本拠を大野田城に定めている。
- 元亀2年(1571年) 武田氏の遠江・三河侵攻において武田家臣山県昌景・小笠原信嶺らの襲来により、大野田城は大破炎上。同年12月、定盈は修築中の野田城を再び本拠としたという。(なお近年では元亀2年の遠江・三河侵攻については根拠となる文書群の年代比定が再検討され、一連の経緯は天正3年の長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている。)
- 1573年 野田城の戦い。水の手を断たれて、城主・定盈は開城降伏する。
- 1590年 徳川家康が関東へ移封されると、定盈も付随。その後、吉田城に入った池田輝政の代官が新城を利用し、野田城を破却。廃城となった。
この城で起きた出来事
武田信玄がこの城を攻めた時、城から聞こえる笛の音に聴き惚れていたら鉄砲で狙撃され、その傷が原因で死亡したとの伝説がある。江戸時代に定盈の後裔が記した『菅沼家譜』で記述が見られるが、武田側での記述は定かではない。もっとも菅沼側でも「夜陰での鉄砲狙撃後に武田陣中が騒々しくなった」ような記述でしかなく、命中したことを明らかにしているわけではない。なお、黒澤明の映画『影武者』は、この伝説を元に制作された。
現在の野田城
- 現在は雑木などが生い茂っているが、土塁と空堀は現在も存在している。
- 野田城跡の北側斜面を含む谷が、建設残土で埋め立てられつつあって問題になっている。
- 本丸にあった門は近くの寺に移築している。