里見義頼
里見 義頼(さとみ よしより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての安房国の武将、大名。家系は新田氏の支流里見氏。
経歴
天文12年(1543年)、安房国の大名・里見義堯の子として誕生。
嫡子に恵まれなかった長兄・義弘の養子となったという(近年の研究では義弘の庶長子とする説もある)。義弘は生前、自身の死後は安房国を義頼に与え、上総国を嫡男・梅王丸(のちの義重)に与えることを約していた。この分割相続を義頼は不満に思い、義弘と義頼の仲は次第に険悪になっていったという。
天正5年(1577年)、義弘が相模国の後北条氏と和睦したことにより、義頼は北条氏政の娘・鶴姫を正室に迎え、2年後に鶴姫が死去すると氏政の妹・菊姫を後妻にした。天正6年(1578年)、義弘が死去すると梅王丸と家督と領土をめぐって対立し、義頼は北条氏政の支援を受けて、天正8年(1580年)に上総国を制圧し、梅王丸を出家させ、里見氏の領国全てを継承した。また、天正9年(1581年)には反抗的な家臣である正木憲時を殺害して、自身の体制を固めていく。
天正8年(1580年)、後北条氏に対抗するため甲斐国の武田勝頼と常陸国の佐竹義重が同盟し(甲佐同盟)、義重の同盟参加を受けて天正9年(1581年)に里見氏も武田氏と同盟した。これに佐竹氏・小弓公方の足利頼淳との同盟を加え対後北条氏の同盟が成立するが、天正10年(1582年)には織田氏による武田氏の滅亡で同盟は破綻する。また、義頼夫人が死ぬと北条氏政との争いが再燃し、義頼はこれを撃退する一方で、豊臣秀吉らと手を結んで連携をとるなど、卓越した外交手腕を見せている。なお、この義頼の伝手のおかげで、後に小田原征伐の折に遅参したにも関わらず里見氏は存続できたともいわれている。
天正15年(1587年)、安房岡本城で病死。墓所は南房総市富浦町の光厳院。
なお、近年になって死亡日の以前にあたる筈の日付(天正15年1月)の文書に義頼の死後に付けられた筈の法号「大勢院」の呼称が載せられている記述が発見されたことから、義頼の死後、後継者である里見義康が幼少であることを理由に暫くその死が伏せられた可能性があり、正しい死亡日は従来異説とされてきた前年の天正14年10月20日とする説が提示されている。また、義頼が足利氏ゆかりの龍の印章を用いたことから、生母を小弓公方足利義明の娘・青岳尼(義弘最初の正室)とする説も出されているが、義弘と青岳尼の婚姻は弘治3年(1557年)頃であることは当時の史料など根拠として通説とされており、同じくその14年前とされている義頼の生年との矛盾が解決されない限りは成り立たないとみられている[1]。
脚注
テンプレート:安房里見氏当主- ↑ 最初にその可能性を指摘したのは、滝川恒昭「里見義頼と青岳尼」(『鎌倉』97号(鎌倉文化研究会、2003年))であるが、佐藤博信は従来の青岳尼の伝記は義明の妹と娘の伝記が混同されている可能性を指摘して、弘治年間に義弘が鎌倉から連れ出して婚姻したのは義明の妹であって、義頼を生んだ義明の娘とは別人であるとする説を採る(佐藤博信「戦国期の関東足利氏に関する考察」(所収:荒川善夫 他編『中世下野の権力と社会 中世東国論3』(岩田書院、2009年))。