那須政資

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那須 政資(なす まさすけ、生年不詳 - 天文15年7月23日1546年8月19日)?)は、下野戦国大名那須氏十八代当主。那須資房の子で那須高資那須資胤那須資郡の父。妻は岩城常隆の娘、大田原資清の娘。

元服に際して、第2代古河公方足利政氏より偏諱を受け政資と名乗る(政氏が在職中の延徳元年(1489年)から永正9年(1512年)の間のことと思われる)。

下那須氏の出身であるが、永正11年(1514年)に上那須氏が内紛により断絶すると、祖母が那須明資の娘だった縁もあり上那須家の当主として大関氏大俵氏といった家臣達に擁立され、下那須家の父資房の隠居後は統一された那須家の当主をつとめた。滅ぼされた上那須家那須資永の実兄結城顕頼やそれを支援する岩城常隆、さらに那須資親(資永の養父)の縁者で上那須家の継承権を主張する宇都宮氏など近隣の勢力と対立し、しばしば戦いを繰り広げたが、岩城常隆の娘を正室に迎えるなど融和策も講じている。

鎌倉以来の名家那須氏の戦国大名化を目指したものの、永正の乱による古河公方家の内紛(政氏・高基の争い)は那須家にも影響を及ぼし、高基の偏諱を受けた嫡男の那須高資を擁立した大関宗増らの勢力と対立し、烏山城上杉氏と結んだ高資に奪われ家督を強奪されたが、上那須地方に拠って抵抗し、結果として那須家の再分裂を招いてしまった。天文8年(1539年)には宇都宮尚綱佐竹義篤と図って烏山城の高資を攻撃した。

晩年ははっきりしないが、天文13年(1544年)頃には高資との和睦が成立して隠居し、天文15年7月23日1546年8月19日)に没したとする説が有力である。また、天文18年(1549年)に宇都宮尚綱と組んで高資を攻撃したものの喜連川五月女坂の戦い(天文18年(1549年))で大敗を喫して自害に追い込まれたとする説もある。テンプレート:Japanese-history-stub テンプレート:Asbox