西大寺 (奈良市)
テンプレート:日本の寺院 西大寺(さいだいじ)は、奈良県奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代に叡尊によって復興された。山号は勝宝山[1]。現在の本尊は釈迦如来である。
目次
歴史
創建
宝亀11年(780年)の『西大寺資財流記帳』によれば、創建の経緯は以下のとおりである。天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。なお、孝謙上皇は同年10月重祚している(称徳天皇)。翌天平神護元年(765年)、前述の四天王像が造立され、西大寺が創建された。この四天王像4体は西大寺四王堂に今も安置されるが、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが創建当時のもので、像本体は後世の作に代わっている[2]。
西大寺の創建当時は僧・道鏡が中央政界で大きな力をもっており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと推定されている[3]。護国のために四天王像を安置するのは「金光明最勝王経」に基づくものである。
「西大寺」の寺名は言うまでもなく、大仏で有名な「東大寺」に対するもので、奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。前述の『資財流記帳』の記載や、元禄11年(1698年)作成の伽藍絵図から復元される伽藍配置は以下のようなものである。寺域の中心には薬師金堂が建ち、その背後、通常の寺院では講堂のある位置には弥勒金堂が建っていた。これら中心伽藍の東には小塔院、その北に食堂院(じきどういん)、中心伽藍の西には正倉院、その北に政所院(まんどころいん)があった。中心伽藍の前方(南)には東西2基の五重塔が建ち、これらの東に四王院、西に十一面堂院があり、四王院の南に東南角院(すみいん)、十一面堂院の南に西南角院があった。塔は八角形で計画されたが、途中で四角形に改められたという。
『資財流記帳』によれば、これらの諸堂には、密教系の像を含む、多数の仏像が安置され、多くの鏡で荘厳されていた。薬師金堂には、薬師三尊像を中心に計21体の仏像が安置され、中には密教系の孔雀明王像も含まれていた。弥勒金堂には計77体もの仏像が安置され、弥勒仏の兜率天浄土を表現していた。[4]
しかし、寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。
叡尊による復興
西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊(興正菩薩、1201~1290)である。叡尊は建仁元年(1201年)、大和国添上郡(現・大和郡山市)に生まれた。11歳の時から醍醐寺、高野山などで修行し、文暦2年(1235年)、35歳の時に初めて西大寺に住した。その後一時海龍王寺(奈良市法華寺町)に住した後、嘉禎4年(1238年)西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗・堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。また、貧者、病者などの救済に奔走し、今日で言う社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像、工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、南北朝時代の明徳2年(1391年)に出された「西大寺末寺帳」には8か国、同時代のその他の史料から更に十数か国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている(なお、現存の国分寺のうち、西大寺と関係を持つのは旧伊予国分寺のみであるが、他にも複数の国分寺が真言宗各派に属している)。
室町時代以降
西大寺は室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。なお、西大寺は1895年(明治28年)に真言宗から独立し、真言律宗を名乗っている。真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺(奈良県生駒市)のほか、京都・浄瑠璃寺、奈良・海龍王寺、奈良・不退寺、鎌倉・極楽寺、横浜・称名寺などがある。
伽藍と仏像
境内には本堂、愛染堂、四王堂、聚宝館(宝物館)などが建つ。本堂前には東塔跡の礎石が残る。
- 本堂(重文) - 寄棟造、本瓦葺。室町時代の焼失後に再建された堂が傷んだため、修理ではなく新築することとし、寛政10年(1798年)頃造営に着手、文化5年(1808年)頃完成したものである。土壁を一切用いず、装飾性の少ない伝統的な様式になる。江戸時代後期の大規模仏堂建築の代表作として、1998年重要文化財に指定されている。この堂はかつては宝暦2年(1752年)の建築とされていたが、正しくは前述のように19世紀初頭の建築である。
- 四王堂 - 江戸時代、延宝2年(1674年)の再建。
- 十一面観音立像(重文) - 平安時代後期の作。
- 四天王立像(重文) - もともとは孝謙上皇発願の四天王像だが、現在は足下の邪鬼にのみ奈良時代のものを残す。像本体は持国天・増長天・広目天像が銅造、多聞天像のみ木造で、前の3体は鎌倉時代、多聞天は室町時代の作と推定される。
- 愛染堂 - 京都御所の近衛公政所御殿を宝暦12年(1762年)移築したもの(移築年次は明和4年=1767年とも)。
- 愛染明王坐像(重文)- 宝治2年(1247年)、仏師善円作。小像ながら、日本の愛染明王像の代表作の1つ。当初の彩色や切金文様がよく残る。秘仏で、毎年10月-11月頃に開扉される。作者の善円は、西大寺本堂本尊・釈迦如来像の作者である善慶と同人と推定されている。像内には、小像にもかかわらず、多数の納入品が納められていた。
- 興正菩薩坐像 - 堂内向かって左の間に安置される、西大寺中興の祖・叡尊の肖像彫刻。弘安3年(1280年)、叡尊80歳の時の肖像で、作者は仏師善春である。長い眉毛、団子鼻の風貌は像主の面影を伝えるものと思われる。西大寺の鎌倉再興期の仏像には像内に多数の納入品が納められているのが特色だが、中でもこの像には叡尊の父母の遺骨をはじめとするおびただしい資料が納入されていた。
- 東塔跡
- 西塔跡
- 本坊・西室・書院
- 寺山大師
- 護摩堂
- 鐘楼
- 石落神社(いしらくじんじゃ) - 西大寺南町の飛地境内にある
- 光明殿
- 塔頭
- 一之室院
- 護国院
- 増長院
- 華厳院
- 清浄院
- 法寿院
- 聚宝館 - 寺宝を展示する宝物館である。
- 南門
- 東門
- 四王堂南門
- 北通用門
- 西大寺幼稚園
- 西大寺保育園
- 奥ノ院(境外)
文化財
境内が国の史跡に指定されている。
国宝
- 絹本著色十二天像 - 12幅が完存する。全体に絵具の剥落・退色が目立つが、現存遺品の少ない平安時代前期、9世紀の仏教絵画の大作として貴重。奈良国立博物館に6幅、東京と京都の国立博物館に3幅ずつ寄託されている。
- 金銅透彫舎利容器 - 高さ37センチの小品ながら、各所に繊細な透彫を施した入念な作で、鎌倉時代の金属工芸を代表するものの1つである。
- 金銅宝塔及び納置品(壇塔) - 宝塔とは、円筒形の塔身に屋根を乗せた形の塔。本作品は高さ約90センチの金銅(銅に金メッキ)製の塔だが、木造建築の外観を忠実に模している。内部には叡尊が所持していた舎利を納める。文永7年(1270年)の作。正式の国宝指定名称は次のとおり。「一、金銅宝塔、 一、金銅宝珠形舎利塔1基(下層内安置)、一、金銅筒形容器1合、一、赤地二重襷花文錦小袋1袋、一、水晶五輪塔赤地錦小袋共1基、一、水晶五輪塔織物縫合小裹共1基(以上上層内安置)」
- 鉄宝塔・舎利瓶 - 前期金銅宝塔と同形式の塔。鉄製で高さ172センチの大型塔である。内部に水瓶(すいびょう)形の銅製舎利容器5基を納める。弘安6年(1283年)の作
- 金光明最勝王経10巻(附 月輪牡丹蒔絵経箱) - 天平宝字6年(762年)の書写。附(つけたり)指定の経箱は鎌倉時代の作。
- 大毘盧遮那成仏神変加持経7巻 - 天平神護2年(766年)、称徳天皇付きの女官吉備由利が発願し、西大寺四王堂に安置した一切経の一部。
重要文化財
(建造物)
- 本堂
(絵画)
- 絹本著色釈迦三尊像(仁王会本尊)
- 絹本著色文殊菩薩像
- 絹本著色吉野曼荼羅図
(彫刻)
- 木造釈迦如来立像 善慶等作(本堂安置)(附 像内納入品)
- 木造騎獅文殊菩薩及脇侍像5躯・像内納入品
- 厨子入木造愛染明王坐像 善円作(愛染堂安置)(附 像内納入品)
- 木造興正菩薩坐像(善春作)・像内納入品
- 木造十一面観音立像(四王堂安置)
- 四天王立像(銅造3、木造1)(四王堂安置)
- 乾漆吉祥天立像
- 木心乾漆阿弥陀如来・釈迦如来・阿閦如来・宝生如来坐像
- 木造行基菩薩坐像
- 木造大黒天立像・像内納入品
(※釈迦如来立像、騎獅文殊菩薩及脇侍像、愛染明王坐像、興正菩薩坐像、大黒天立像の像内納入品の細目は後出)
(工芸品)
- 黒漆彩色華形大壇・黒漆箱形礼盤(愛染堂所在)
- 金銅舎利塔(伝叡尊於伊勢感得)
- 金銅舎利塔(伝亀山天皇勅封)
- 金銅密教法具 一具(金剛盤、五鈷鈴、独鈷杵、三鈷杵、五鈷杵)
- 金銅装犀角刀子
- 朱漆輪花天目盆 享徳四年銘
- 大神宮御正躰
(書跡典籍、古文書、歴史資料)
史跡(国指定)
- 西大寺境内 - 指定区域は現境内のほか、叡尊墓五輪塔のある奥の院(奈良市西大寺野神町)、伝称徳天皇山荘跡(奈良市西大寺宝ヶ丘)を含む。創建時の主要伽藍があった土地(現境内の北側)は住宅地となっており、史跡の指定範囲外である。[6]
- 木造釈迦如来立像(本堂安置)1躯
- 台座に建長元年、大仏師法橋善慶等の造立銘がある
- 附 像内納入品
- 一、水晶五輪塔(願文・錦裂・紐付)1基/悲華経1巻/巻子(包紙添)1巻/錦袋(紐付)1口
- (以上頭部内納入)
- 一、宝治二年八月賢任造像願文及奉加帳(包紙・紙縒添)1巻
- 一、結縁交名(包紙・紙縒添)8巻 内に善慶、増金等の仏師交名及び宝治三年三月、四月、建長元年四月・五月等の年記がある
- 一、梵字真言曼荼羅・梵網経 1巻/願文・阿弥陀経 1巻/建長元年四月沙弥総持発願記 1通/建長元年四月沙弥祐信願文(軸木添)1通/比丘尼戒忍願文・結縁交名 1巻/結縁交名等 9巻(内1巻錦袋付)/散華・五輪塔形紙等 一括/包紙(紙縒添)4枚
- 一、法華経(開結共)(軸木添)10巻/心経・阿弥陀経 合1巻/錦袋残欠(紐付)一括
- 一、抹香包 1包
- 一、蓋紙 1枚
- 一、天正十二年四月修理願文 1通
- (以上躰部内納入)
- (像本体は1902年重要文化財指定。像内納入品は1971年追加指定。1977年納入品の名称変更。)
- 木造騎獅文殊菩薩及脇侍像 5躯
- 獅子像内に永仁元年の記がある
- 像内納入品
- 一、水晶五輪塔(錦袋付)1基/銅製筒形容器 1合
- 一、錦裂(舎利包裂)2枚 内一、蓮実製舎利容器付、尼生蓮奉納
- 一、木造文殊菩薩立像 1躯
- 一、著色八字文殊曼荼羅図 1紙
- 一、著色種子曼荼羅、文殊図像、真言、種子等 1巻 正安四年六月十六日殊音図絵書写奥書
- 一、日課文殊菩薩図像(二百五十躰)1巻 自正安三年十一月至同四年八月珍基図絵奥書
- 一、日課文殊菩薩図像 1紙 正安四年六月殊音図絵奥書
- 一、騎獅文殊菩薩像 1紙 正安三年二月三日實秀図絵奥書
- 一、騎獅文殊摺仏 1巻 正安四年六月二十日行如浄俊等奥書
- 一、弘安九年五月尊恵宇治河中石塔納入願文案 1通 紙背正応六年八月尊恵願文及般若心経
- 一、正応六年八月十三日浄尊願文 1通
- 一、正安四年四月十五日浄泉願文 1巻
- 一、正安四年八月十二日定誉願文(包紙添)1通
- 一、正安四年八月二十五日専忠文殊像造立願文 1通
- 一、比丘尼本海願文 1紙
- 一、願文 1紙
- 一、諸尊図像 1巻 定信・永実奥書
- 一、版本諸尊図像・陀羅尼等(九重守)1巻 弘安八年二月十五日信聖刊記
- 一、大般若経 329巻 自正応六年八月至正安四年八月殊音等書写奥書
- 一、般若心経 11巻 内三巻正安二年、同四年書写奥書
- 一、法華経8巻 自正安三年四月至同五年六月長誉書写奥書
- 一、金光明最勝王経 10巻 正安四年八月隆基等書写奥書
- 一、成唯識論 10巻 正安四年八月平実等書写奥書
- 一、仮名文殊五字真言 6通 永仁元年八月・九月書写奥書
- 一、諸尊種子及文殊真言1紙 永仁元年十月一日尊慧発願奥書
- 一、文殊真言・五字文殊種子 1紙
- 一、文殊真言・種子 1紙
- 一、文殊真言・光明真言等 1紙
- 一、文殊呪読誦注文 1紙
- 一、梵字般若惣題等(包紙添)3紙 正安四年八月二十五日鏡慧奉納奥書
- 一、一字金輪・大威徳・荒神真言 1紙
- 一、五大明王種子 1紙 正安四年八月二十五日奉納記
- 一、華厳経十行品要文 1通 正安四年八月二十五日奉納記
- 一、版本金剛頂経瑜伽文殊師利菩薩五字真言経 1帖 正応三年七月日刊記
- 一、金剛頂経瑜伽文殊師利菩薩五字真言経(版下草稿)2通 内一通、正応三年七月日刊記奥書
- 一、法華経信解品等(包紙、興基奉納記)3種
- 一、結縁交名 2紙
- (以上文殊菩薩像々内納入)
- (文殊像は1902年重要文化財指定。像内納入品は1935年に別件で書跡として重要文化財に指定。1973年に以上2件の重要文化財を統合の上、脇侍像4躯および未指定の像内納入品を追加指定。1985年、未指定の像内納入品をさらに追加指定。)
- 木造興正菩薩坐像 善春作
- 像内に弘安三年八月廿六日、大仏師法橋善春の造立銘及び七仏略戒等の記がある
- 像内納入品
- 一、金銅八角五輪塔 1基
- 一、紙本墨書舎利安置状 1通 文永七年三月六日西仏奥書
- 一、紙本墨書両界種子曼荼羅 1巻
- 一、紙本墨書梵網経 1帖 建治二年十月十九日及び弘安元年十二月二十二日澄慧奥書
- 一、版本大仏頂陀羅尼啓請法 1巻 弘安二年二月八日惣持刊記、同五月廿二日惣持奥書/紙本墨書五種陀羅尼真言等 1巻 弘安三年九月六日惣持奥書
- 一、紙本朱書法華経(開結共)10巻 弘安二年十一、十二月元尒等奥書/紙本朱書般若心経 1巻 弘安二年十二月観海奥書/紙本墨書観海願文 1通 弘安三年九月十二日奥書/木箱、包紙等 一括
- 一、紙本墨書般若理趣経 1巻 弘安二年九月奥書
- 一、紙本墨書般若心経 1巻 弘安三年□(四)月五日性忍奥書
- 一、紙本墨書悲華経(巻第六、七)2巻 弘安三年九月生恵等奥書
- 一、版本金光明最勝王経 10巻 弘安三年九月十日鏡慧奥書
- 一、版本四分戒本 1巻
- 一、版本梵字経 6冊
- 一、紙本墨書供養法日数 1巻
- 一、紙本墨書自誓受戒記等 1巻
- 一、紙本墨書西大寺有恩過去帳 1巻 弘安三年九月十日鏡恵奥書
- 一、紙本墨書授菩薩戒弟子交名 3巻 弘安三年九月十日鏡恵奥書
- 一、父母遺骨 1包/紙本墨書願文 3通(文永三年九月、弘安三年八月及び尼尊□)
- 一、紙本墨書願文 15通 宝治元年六月、建治二年五月、弘安三年八月、九月等
- 一、紙本墨書寛誓祈願文 1巻 文永十二年暮春十二日発願
- 一、紙本墨書同心祈誓文 1通
- 一、紙本墨書願文等残片 一括
- (附指定)
- 仏舎利 1包 宝暦十二年高随奉納
- 真鍮製舎利容器 1合/紙本墨書宝暦十二年晁堯、堯慧願文 1通
- 紙本墨書金光明最勝王経(御点本)10帖 延元元年順乗所持奥書
- 版本仁王般若経 2帖 永徳元年刊記
- 紙本墨書仁王般若経(下)1帖 至徳四年奥書
- 版本法華経 8巻 永正十六年刊記
- 紙本墨書孟蘭盆経 1巻 天正十九年奥書
- 紙本墨書宝楼閣経 1巻 元和二年奥書
- 版本孟蘭盆経 1帖 明暦二年刊記
- 版本孟蘭盆経 1巻 明暦二年刊記
- 版本地蔵菩薩本願経 2帖 万治三年刊記
- 版本遺教修多羅 1帖 貞享四年刊記
- 版本四分戒本 1帖 元禄二年刊記
- 紙本墨書金光明最勝王経(寿量品)12紙 宝暦十二年奥書
- 紙本墨書七仏略戒 1帖 宝暦十二年奥書/紙本墨書律苑僧宝興正伝 1冊 宝暦十二年奥書
- 紙本墨書宝篋印陀羅尼、七仏略戒等 一括 各宝暦十二年奥書
- 版本大仏頂、大随求陀羅尼 1帖/紙本墨書宝篋印陀羅尼 1紙 宝暦十二年奥書
- 版本大随求陀羅尼 1帖 宝暦十二年奥書
- 紙本墨書般若心経及阿弥陀経 1巻
- 版本般若理趣経 1巻
- 版本仁王般若経 2帖
- 版本阿弥陀経 1帖
- 版本阿弥陀経(両点清濁)1帖
- 版本及墨書釈門帰敬儀 2帖
- 版本法華経 1帖
- 金襴八角五輪塔仕服 1枚
- (像本体は1924年重要文化財指定。像内納入品は1963年に追加指定。)
- 厨子入木造愛染明王坐像 善円作(愛染堂安置)1躯
- 附 像内納入品
- 一、金銀製舎利容器 2口
- 一、紙本墨書瑜伽瑜祇経 1巻 宝治元年八月十八日、大願主叡尊奥書
- 一、紙本墨書梵字宝篋印陀羅尼 1巻
- 一、紙本墨書宝治元年範恩造立願文 1巻
- 一、錦包裂及錦残片 1枚1片
- 一、条紐 1本
(以上経幢内納入)
- 一、木製六角経幢 1基
- 一、紙本墨書散念誦 1紙
- 一、梵字、花押紙片等 一括
- (像本体は1924年重要文化財指定。像内納入品は1962年に追加指定。)
- 木造大黒天立像 1躯
- 像内納入品
- 一、版本法華経(一部八巻)4帖
- 一、版本大般若経理趣分1帖
- 一、諸尊種子曼荼羅1巻
- 一、木製五輪塔1基
- 一、木造大黒天半跏像(曲物笥入)1躯
- 一、弁才天懸仏(曲物笥入)1面
年中行事
- 大茶盛 - 毎年1・4・10月に行われる。直径30センチ以上、重さ6~7キロの大茶碗と長さ35センチの茶筅でお茶を立て、参拝客にふるまわれる。叡尊が西大寺の鎮守八幡宮に茶を奉納し、お下がりの茶を参詣人にふるまったのが起源とされる。
学園施設
境内(西大寺芝町1丁目1-9)に西大寺幼稚園(昭和25年創立)がある。
交通アクセス
脚注
- ↑ 奈良時代の寺院には山号はなく、この山号は後になってつけられたものである。
- ↑ 『週刊朝日百科 日本の国宝59』p.5-258の図版解説に、邪鬼は4体とも当初のものとある。
- ↑ 「金子、1987」、p.17
- ↑ 「歴史」の項は「金子、1987」、pp.10 - 49による。
- ↑ 詳名は「金剛仏子叡尊感身学正記」。ここでは重要文化財指定名称による。
- ↑ 『図説日本の史跡 5 古代2』、同朋舎出版、1991、pp.192 - 193
参考文献
- 井上靖、塚本善隆監修、梅原猛、松本実道著『古寺巡礼奈良8 西大寺』、淡交社、1979
- 金子啓明『日本の古寺美術10 西大寺』、保育社、1987
- 奈良国立博物館編『奈良西大寺展』(特別展図録)、日本経済新聞社発行、1991
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』59号(西大寺ほか)、朝日新聞社、1998
- 独立行政法人文化財研究所 奈良文化財研究所『奈良の寺 世界遺産を歩く』岩波書店、2003
- 『日本歴史地名大系 奈良県の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 奈良県』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館