荻清誉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
荻 清誉(おぎ きよたか、永正5年(1508年) - 永禄11年(1568年))は駿河の国人。小次郎。図書助。駿河松野城主。荻久誉の子。
祖先概略
荻氏は清和源氏系で甲斐武田氏と同じ逸見氏を祖に持つ一族。 室町時代に入って、初代荻氏誉が足利義満から駿河国松野荘を与えられ国人として定着したとされる。
略歴
清誉は父久誉から引き続き今川氏に仕えた。居城である松野城(北松野城)は甲斐との国境に近い富士川の西側に位置しており、今川氏が国境で武田氏と、また富士川を隔てて北条氏と争った天文年間にもかかわらず、所領を守り続けた。
天文23年(1554年)の甲相駿三国同盟によって富士川流域から戦乱の脅威はいったん去ったが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川家当主の今川義元が戦死すると、外交関係はにわかに崩れ始め、永禄11年(1568年)には武田信玄が国境を越えて駿河に侵攻するに至った。清誉は信玄の懐柔には応じず、軍を率いて松野山で武田軍と戦ったが、討死をとげた(内房口の戦い)。
その後の荻氏
清誉の子君誉は武田氏に降伏し、武田氏の姻戚である穴山信君に仕えた。