紀元前245年
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テンプレート:Yearbox 紀元前245年は、ローマ暦の年である。当時は、「マルクス・ファビウス・ブテオとガイウス・アティリウス・ブルブスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元509年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前245年と表記されるのが一般的となった。
できごと
エジプト
ギリシア
- 甥のアレクサンドロスの死後、アンティゴノス2世はその未亡人のニカエアを息子デメトリウス2世に嫁がせた。これにより、アンティゴノス2世は、アレクサンドロスの支配下で独立状態にあったコリントスを再び手に入れた。
- Aratus of Sicyonが、アカイア同盟の将軍職に選ばれた。
中国
- 秦の麃公が韓を攻め、首を斬ること3万であった。
- 趙は廉頗を相国代行とし、魏を攻め、繁陽(現在の河北省内黄県)を取る。趙の孝成王が死去し、子の悼襄王が即位すると、廉頗の代わりに武襄君楽乗を後任とする。廉頗は怒り、楽乗を攻撃する。楽乗は逃げ、廉頗も魏に亡命する。しかし魏は信任しなかった。趙は秦に度々攻められ、廉頗を再び用いようとする。趙王は使者を送り、廉頗の様子をみる。廉頗と不仲だった郭開は、使者に金を送り、これを失敗させようと図る。廉頗は使者に会うと、「一飯に斗米、肉十斤、甲を被り馬に上り」という様子を見せ、健在を示す。使者は帰って「廉頗は老いていますが、健啖だ。しかし3度も小用に立った(または3度も失禁した)」と報告する。趙王は老いたと思い、召さなかった。楚は密かに廉頗を迎え、将とした。しかし功績を立てられず、「趙の人を使って戦いたい」と言った。寿春で病没した
誕生
死去
- ロドスのアポローニオス:ギリシアの詩人、政治家(紀元前295年生)
- 孝成王:趙の王