生実藩
生実藩(おゆみはん)は、下総国千葉郡(現在の千葉県千葉市中央区生実町および同市緑区おゆみ野)に存在した藩。藩庁は生実陣屋に置かれた。房総の諸藩のうちで、転封がなかった数少ない藩の一つである。
藩史
「生実」は元々「小弓」と書かれ、戦国時代初期に古河公方の後継者争いに敗れた足利義明が千葉氏の重臣原氏の居城だった小弓城を奪って居城とし、「小弓公方」を名乗って房総一帯を制圧したが、第一次国府台合戦で北条氏綱に討ち取られて滅亡している。後に原氏が旧領に復帰して地名を「生実」と改めた。
元和9年(1623年)、将軍徳川家光の寵臣であった酒井重澄が生実に2万5000石を与えられて生実藩を立藩した。病気療養と称しながら、その間に子を儲けたことで家光の勘気を蒙り、寛永10年(1633年)に勤務怠慢との理由で改易され、酒井家の生実藩は廃藩となった。
寛永4年(1627年)2月、上総・相模・下総国内においてそれぞれ1万石を与えられて大名となった森川重俊は、酒井家とは別に生実藩を立藩した。重俊は慶長19年(1614年)の大久保長安事件に連座して改易されていたが、その後赦免されて大名となった。領地は下総国葛飾・匝瑳郡、上総国武射郡・長柄郡、相模国大住郡・鎌倉郡内にそれぞれあった。重俊はその後、老中にまで栄進したが、寛永9年(1632年)1月25日、徳川秀忠の死後に殉死した。代わって森川重政が跡を継ぐが、年貢負担をめぐっての争論が起きるなど藩が混乱した。寛文3年(1663年)1月23日に死去し、跡を森川重信が継ぐ。重信は元禄5年(1692年)6月27日に隠居して家督は森川俊胤が継いだ。俊胤は大番頭・奏者番・寺社奉行を歴任し、幕閣において活躍した人物である。第8代藩主・森川俊知は西の丸若年寄に栄進し、藩政においては財政再建のために家臣団俸禄の減少などを行なったが効果は無く、逆に百姓の利八に直訴される有様であった。第9代藩主・森川俊民は天保9年(1838年)8月9日に俊知が死去した後、家督を継いだ。そして大番頭・奏者番・若年寄を歴任している。
最後の藩主となった森川俊方は、戊辰戦争では新政府側に与した。翌年の版籍奉還で俊方は知藩事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で生実藩は廃藩となる。その後は生実県を経て、同年11月に印旛県に編入され、のちに千葉県となった。
歴代藩主
酒井家
2万5000石。譜代。
- 酒井重澄(しげずみ)〈従五位下・山城守〉
森川家
1万石。譜代。
- 森川重俊(しげとし)〈従五位下・出羽守〉
- 森川重政(しげまさ)〈従五位下・伊賀守〉
- 森川重信(しげのぶ)〈従五位下・出羽守〉
- 森川俊胤(としたね)〈従五位下・出羽守〉
- 森川俊常(としつね)〈従五位下・内膳正〉
- 森川俊令(としのり)〈従五位下・内膳正〉
- 森川俊孝(としたか)〈従五位下・紀伊守〉
- 森川俊知(としとも)〈従五位下・内膳正〉
- 森川俊民(としたみ)〈従五位下・出羽守〉
- 森川俊位(としひら)〈従五位下・出羽守〉
- 森川俊徳(としのり)〈従五位下・出羽守〉
- 森川俊方(としかた)〈従五位下・内膳正〉
現状
陣屋跡は住宅地などとなり、生実神社との境に土塁と空堀の一部が残る。
幕末の領地
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