王重陽

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王 重陽(おう ちょうよう テンプレート:Zh2北宋政和二年(1112年)12月22日 - 大定九年(1170年)正月4日)は、道教の一派、全真教の開祖である。日本語読みを「じゅうよう」とする事典類も多いが、その語義よりすれば、「ちょうよう」と読むのが意にかなっている。

生涯

咸陽陝西省)の出身。原名は中孚(ちゅうふ)、を允卿(いんけい)としたが、後に嘉(または喆)、字を智明と改名する。道号の重陽で呼ばれるのが一般的である。

咸陽の農家の三男に生まれ、幼くして儒学の勉強を始めて学問を重ねたが科挙を受けること叶わず、金朝治下の天眷三年(1140年)頃、武挙に合格する。しかし、咸陽郊外の甘河鎮という辺境の酒税監(酒税徴収の監督官)にしか任じられなかったため、失意のうちに身を持ち崩し「王害風」と呼ばれるような酒に耽る毎日を送るようになった。

正隆四年(1159年)6月16日、四十八歳の時、突然の転機が訪れ、「甘河の偶仙」と呼ばれる神仙との神秘的邂逅によって道士となった。この時、王重陽が出会った「一先生」は、呂純陽の化身であると解釈されている。翌年にも醴泉で再度遭遇したことで、王重陽は、回心の決意をかため、妻子を捨てるに至る。そして酒をぴたりと止め、厳しい修行の生活に入った。

大定元年(1161年)には、南時村に「活死人」の墓と名付けた深さ4mもの穴を掘り、そこで修行を続けること二年半に及んだ。そしてついに本来の真性を得て悟り、金丹が成った[1]。この場所には、彼の没後、憲宗二年(1252年)に、重陽成道宮という道観が建立されている。大定三年(1163年)には、活死人の墓を埋めた王重陽は、劉蒋村近郊に粗末な庵を結び、修行と教化を開始したが、重陽を知る郷人は相変わらず「害風」扱いをして受け入れることはなかった。 そして、常に大きなふくべを背負い、歌を口ずさみながら、またその歌中に「塵外の句」を交えて、諸処を経巡り、道士や僧と誰彼なく教えを交わせること、三年半に及んだ。

大定七年(1167年)4月26日、王重陽は突如として自分で劉蒋村の庵を焼いた。のちの弟子たちはこの庵を全真教発祥の場所と考え「祖庭」と呼ぶ。翌日、重陽は不退転の決意でひとり山東地方を目指して旅立った。ここで初めて、と改め、字を智明、道号を重陽子とした。その年の秋には、山東地方に現れる。閏7月18日、馬丹陽に出会い、入門させる。この時、馬丹陽が提供した庵の名が「全真」であった所から、全真教の名が起こったという。馬丹陽を弟子としたことが契機となり、入門を願う人々が「雲集」したが、のちに高弟となる丘長春1148年 - 1227年)、譚長真郝広寧王玉陽の四人しか弟子を取らなかったという。

大定八年(1168年)2月、王重陽は弟子を連れて寧海州の煙霞洞にこもり厳しく弟子を教導した。6か月に亘る修行ののち、8月に文登県で活動を始めて「三教七宝会」という一般に向けた組織をつくることに成功した。教えの評判の高さにより翌年の大定八年(1169年)には牟平県で「三教金蓮会」を組織し、その前後に馬丹陽の妻の孫不二が弟子となった。その後「三教三光会・三教玉華会・三教平等会」をつくり、三教七宝会からわずか14か月で山東地方に五つの会を組織して一般に受け入れられた。この頃に掖県劉長生が弟子に加わり、馬丹陽以下の七人の高弟が揃い、のちに「七真人(全真七子)」と呼ばれた。

大定九年(1169年)10月、王重陽は、故郷の陝西への帰路にたち、帰途の汴京開封)で高弟に最後の厳しい教導をしたのち、大定十年(1170年)正月4日、五十九歳で没した。晩年の三年の短い期間に全真教の将来の路線は定められた。

著作

  • 『重陽全眞集』
  • 『重陽敎化集』
  • 『重陽十五論』
  • 『重陽授丹陽廿四訣』

伝記資料

  • 『終南山神仙重陽眞人全眞敎祖碑』
  • 『終南山重陽祖師仙跡記』
  • 『重陽眞人碑』 (元好問撰)
  • 『終南山祖庭仙眞内傳』
  • 『金蓮正宗記』
  • 『金蓮正宗仙源像傳』
  • 『歴世眞仙體道通鑑續編』

フィクション

金庸武俠小説射鵰英雄伝』で、全真教の開祖のほか、武術の達人として描かれている。第一次「華山論剣」で天下一となり「中神通」と呼ばれた。物語中ではすでに故人となっている。

弟子の丘長春(丘処機)も武術の達人として登場する。

脚注

  1. 本来の真性とは悟りであり、金丹であると王重陽はいう。『重陽全真集』巻二の「金丹」と題する詩は、本来の真性=金丹を自己の内側で煉りあげることを述べている。(テンプレート:Cite book

関連項目