特二式内火艇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:戦車

ファイル:Type2 ka-mi IJN illustrated.jpg
特二式内火艇のカラー側面図

特二式内火艇 カミ車(とくにしきうちびてい カミ車)は日本海軍海軍陸戦隊)の水陸両用戦車1942年昭和17年/皇紀2602年)に制式採用された。昭和以降の兵器の呼称様式に従い皇紀の下2桁を取って「二式」と呼ばれる。

開発

ファイル:Ka-Mi float.JPG
アメリカ軍により捕獲され、航走試験中の車輌。1945年

海軍陸戦隊はそれまで八九式中戦車九五式軽戦車等の陸軍制式戦車、及び独自に輸入したヴィッカース・クロスレイ装甲車等を使用していたが、上陸作戦に使えるような車両は保有していなかった。そこで陸軍技術本部の協力を仰ぎつつ、九五式軽戦車をベースに開発したのが本車である。

潜水艦による輸送を考慮したため、全面的に溶接構造を採用し、ハッチ部分にはゴムシールを装備するなど、車体の水密化を図っていた。水上航走時は、後部に付けられた2基のプロペラスクリューによって推進した。

砲塔は二式軽戦車の物を流用していた。主砲は、前期型では間に合わせに九四式三十七粍戦車砲もしくは九八式三十七粍戦車砲を搭載していた。後期型では本来の一式三十七粍戦車砲を搭載していた。一式三十七粍戦車砲は主砲同軸機関銃である九七式車載重機関銃との双連であった。また、車体前方左側に九七式車載重機関銃を装備していた。そのため前期型で車体前方機関銃1挺のみであり、後期型では主砲同軸機関銃と合わせて2挺である。

本車の特徴として、車体の前後に水上走行を可能とするための着脱式の舟形フロート(浮き)を取り付け、上陸後に着脱するようになっていた。フロートの再装着には時間がかかるため、厳密には本車が「水陸両用戦車」でいられるのはフロートを付けている状態の時のみである。ただ、帝国海軍は本車を上陸侵攻作戦用の兵器と位置づけていたため、この点はあまり問題とはされなかった。前部フロートには一体式の前期型と左右分割式の後期型があった。

また、展望塔や換気塔も上陸後は外される事となっていたが、こちらは実戦では付けたまま行動しているものもある。

試作車は1941年(昭和16年)に完成し、翌年に“特二式内火艇 カミ車”として制式化された。本車は艦船名簿にも記載されており“隻”で数えられる。

配備と実戦

本車は終戦までに約180輛が完成し、南方の島嶼地域に展開する海軍陸戦隊に配備された。搭載砲は既に威力不足となっていたものの、貴重な装甲戦力として重宝された。

初の実戦となったのはサイパンの戦いで、10輛が配備された。上陸作戦ではないためフロートは未装着であった。

フィリピンレイテ島の戦いでも使用された。台湾沖航空戦の戦果を信じた大本営は同島を決戦地と捉え、多号作戦と呼ばれる強行輸送を1944年(昭和19年)10月下旬から繰り返し行った。12月7日にレイテ島を巡る戦いの事実上の終結点ともいえるアメリカ軍のオルモック湾上陸作戦が行われたが、その直後、12月11日の夜間にはマニラから第九次船団となる二等輸送艦2隻が駆逐艦夕月」・「」の護衛の下、400名の陸戦隊員と本車11輛、トラック、火砲、物資を満載してオルモック湾に到着した。

先に上陸を開始した「第159号輸送艦」はアメリカ軍第55師団から攻撃を受けるも機材を下ろし、続く「140号」も機材の6割を下ろすことに成功した。洋上でも駆逐艦隊同士の交戦が行われたものの、大破した「159号」を除く3隻は離脱することができた(ただし「夕月」は帰路に空襲で撃沈される)。

上陸部隊は激しい攻撃にあいつつも、オルモックを守っていた日本陸軍第26師団の一部と連絡を取ることに成功した。本車は更に2号ハイウェイに沿って北上を図ったが、アメリカ軍第77師団に妨げられた。やむなくルートを変更し北にあるバレンシア飛行場にいた海軍設営隊と連絡を取ろうとするも失敗し、オルモックの北西にあった海岸の町パロンポン付近に追い詰められ、壊滅した。

このほか、硫黄島などでも実戦で使われたという説もあるが、使用状況はよく分からない。

現存車輛

北千島の海軍守備隊に配備されていてソ連軍鹵獲された車輌が、ロシアにあるクビンカ戦車博物館に展示されている。

脚注


テンプレート:Sister テンプレート:第二次世界大戦の日本の装甲戦闘車両 テンプレート:Asbox