済遠 (防護巡洋艦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(済遠から転送)
ファイル:Japanese cruiser Saien in 1895.jpg | |
艦歴 | |
---|---|
発注 | |
起工 | 1880年1月31日 |
進水 | 1883年6月6日 |
就役 | 1885年8月 |
その後 | 1904年11月30日触雷、沈没 |
除籍 | 1905年5月21日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準排水量:2,355トン(北洋艦隊所属時)2,440トン(日本海軍所属時) |
全長 | 75.0m |
全幅 | 10.5m |
吃水 | 4.67m |
機関 | 形式不明円缶2基+三段膨脹式レシプロ機関2基2軸推進 |
最大出力 | 2,800hp |
最大速力 | 15ノット |
燃料 | 石炭:230トン |
乗員 | 180~202名 |
兵装 | (北洋艦隊所属時) クルップ 21cm(38口径)連装砲1基 クルップ 15cm(35口径)単装砲1基 47mm単装砲2基 37mm単装砲9基 381mm水上魚雷発射管4基 (日本海軍所属時) |
装甲 | 甲板:75~102mm(主甲板) 主砲バーベット部:50mm(最厚部) 司令塔:50mm |
済遠(さいえん、Tsi yuen)は、清国海軍がドイツのフルカン社に発注して就役させた防護巡洋艦で同型艦はない。北洋艦隊に所属し、日清戦争において日本海軍に鹵獲された。日露戦争において戦没。
艦歴
1886年8月、清国北洋艦隊の旗艦定遠らとともに、補修の名目で長崎に入港。その際、上陸した乗員により騒動が起こる(長崎事件)1894年、北洋艦隊に編入。同年、日清戦争に参加。豊島沖海戦や黄海海戦に参加。両海戦でのある意味では見事な逃走が有名となる。1895年2月17日、威海衛の戦い後、威海衛で日本軍に降伏し鹵獲される。
1895年3月16日、巡洋艦として艦籍に入る。1898年3月21日、三等海防艦に類別。1903年12月-日、邦人保護で仁川、木浦に派遣。
1904年2月8日、日露戦争開戦。釜山沖で、エカテリノスラフ(ロシア語:Екатеринослав)号 拿捕。
同年11月30日、鳩湾で二〇三高地攻撃を支援中、午後2時24分にセントアップス頭北西沖で触雷し3分後に沈没[1]。艦長但馬惟孝中佐以下38名が死亡し、195名が救助された[2]。
艦長
- 日本海軍
- 平尾福三郎 大佐:1895年5月11日 - 1896年8月13日
- 柏原長繁 大佐:1896年8月13日 - 1897年2月18日
- 東郷正路 大佐:1897年4月17日 - 12月27日
- 徳久武宣 大佐:1897年12月27日 - 1898年5月3日
- 井上敏夫 中佐:1898年5月3日 - 7月19日
- 松枝新一 中佐:1898年7月19日 - 9月1日
- 高橋助一郎 中佐:1900年5月20日 - 9月25日
- 松枝新一 大佐:1900年9月25日 - 1901年1月23日
- 佐伯誾 中佐:1901年4月1日 - 1902年1月28日
- 但馬惟孝 中佐:1903年2月3日 - 1904年11月30日戦死
脚注
参考文献
- 真鍋重忠、『日露旅順海戦史』、吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 『官報』
関連項目
外部リンク
- 备受争议的大清海军“济远”舰(多图)本艦の説明。(中国語)
- 濟遠本艦の説明。(中国語)
- 北洋水師(中文)