海老名弾正
テンプレート:Infobox 人物 テンプレート:熊本バンド
海老名 弾正(えびな だんじょう、改名前は喜三郎、安政3年8月20日(1856年9月18日) - 昭和12年(1937年)5月22日)は、日本の思想家・教育者・キリスト教の伝道者・牧師・説教家。小崎弘道、宮川経輝と共に「組合教会の三元老」と呼ばれた。
生涯
筑後国柳川藩の藩士で六組給人(石高100石、小野勘解由組)の海老名平馬助の長男として生まれる。祖父は海老名弾右衛門。
熊本洋学校に学び、明治9年(1876年)花岡山の誓約に加わり、L・L・ジェーンズから洗礼を受ける。その集団が後に熊本バンドと呼ばれるようになる。
その年の秋に同志社神学校に移り新島襄の薫陶を受ける。翌年明治10年(1887年)に新島襄の勧め上州安中に夏期伝道に赴いた。海老名は上州で聖書講義をした。評判が良く50-60人の青年が集まった。
さらに、明治11年にも安中伝道を行った。新島襄を迎えて30名の人が洗礼を受け、安中教会が誕生した。 明治12年同志社を卒業すると、安中教会の正式な牧師となり、新島から按手礼を受ける。
明治15年(1882年)横井小楠の長女みや子と結婚する。明治17年(1884年)に前橋に転居して、前橋教会を創立する。
明治19年(1886年)に東京伝道を志し、本郷湯島で伝道を開始して本郷教会を創立する。
本郷教会は義兄の横井時雄に委ね、熊本に戻る。そこで、熊本英学校、熊本女学校を創立する。
明治23年(1890年)に海老名は日本基督教伝道会社の社長に就任し、アメリカから財政、神学的独立のために尽力した。明治26年(1893年)に神戸教会の牧師に就任するが、明治30年(1897年)に同教会を辞任し、東京に移る。
「キリスト同志会」をつくり本郷教会牧師の再建を図る。明治33年(1900年)に雑誌『新人』を発行する。吉野作造、内ヶ崎作三郎、深田康算、鈴木文治などが加わり、日本の思想界、キリスト教界の注目を集めた。
晩年には第8代同志社総長をつとめた。
神学
- 日本基督教会の指導者植村正久が明治34年(1901年)9月『福音新報』に、「福音同盟会と大挙伝道」を発表したことを受けて、「植村・海老名キリスト論論争」が起こり、海老名弾正はユニテリアン、ドイツ自由主義神学を代弁する日本組合基督教会の指導者として、植村と論争した。
- 海老名は国家主義的であり、日露戦争、日韓併合をキリスト教精神の現れとして支持した。海老名の思想は、神道的キリスト教と呼ばれた。これを海老名の教え子である渡瀬常吉が、朝鮮植民地伝道で実践した。
- 海老名をはじめとする熊本バンド、会衆派教会は、特に1880年代に流入してきた自由主義神学(リベラル)の影響下にある。[1]
著書
- 『熊本洋學校と熊本バンドと』熊本バンド記念事業団
- 『新日本精神に就て-新日本精神の内容』 新日本精神研究會 1937 (ひのもとパンフレット第1輯)
- 『世界と共に覺めよ 』廣文堂書店 1917
- 『國民道徳と基督教』北文舘
- 『勝利の福音』 新人社 1903
- 『基督教本義』日高有隣堂 1903
- 『選民の宗教』新人社 1916
- 『帝国の新生命』 海老名弾正 警醒社 1902
- 『静的宗教と動的宗教』大鐙閣 1918
- 『日本精神と基督教』同志社教會 1944
- 『霊界新潮』1906