治水橋
治水橋(じすいはし)は埼玉県のさいたま市西区二ツ宮と同飯田新田の境で荒川に架かる、埼玉県道56号さいたまふじみ野所沢線の橋である。
概要
1993年完成の橋は、河口から42.0kmの地点に架かる[1] 長さ833.1m、幅員12.5メートル、主径間68.7メートルの13径間鋼連続箱桁橋である[2][3]。歩道は車道を挟んだ両側に設置されている。親柱は旧橋を継承したような優美な外見をしたものである。橋には治水橋と書かれた旧橋のトラスを模したオブジェが照明灯に2か所設置されている。両岸はさいたま市で、県道は東では同市大宮区に、西には富士見市に通じるが、右岸側の取り付け道路の高架橋において僅かに川越市域にかかる。 西武バスの大34系統路線(大宮駅西口-所沢駅東口)の路線バスの走行経路である。富士見寄りのバス停は「治水橋堤防」が最寄り。
歴史
1934年の橋
荒川が現在の位置を通るようになったのは1926年(大正15年)5月17日のことである。明治時代から続いた河川改修の一環で、直線化で取り残された旧川の曲線部はびん沼(今のびん沼川)となり、新しい川には渡船場が置かれ有料の賃渡船が運行されたが1927年(昭和2年)に県営化された[4][5]。
治水橋の工事は1931年(昭和6年)11月に始まり、総工費34万6700円をかけて1934年(昭和9年)7月に竣工した[5][6][7][8]。 開通式は快晴の下、7月23日の11時に左岸河川敷に設けられた会場で挙行された[9]。開通式は先ず神主の神事や玉串礼拝が執り行われた後、県知事の式辞および内務省東京土木出張所長や県会副議長や浦和市長、そして本橋の架橋運動に尽力した功労者である斉藤祐美の祝辞が行われ、 後に神官と共に県知事を初め来賓500名と橋の付近に所在する馬宮小学校(現、さいたま市立馬宮東小学校およびさいたま市立馬宮西小学校)の国旗を手にした児童600名による渡り初めが、青空に合図花火(信号雷)が鳴り響く中、左岸から右岸に向けて行われた他、河川敷の会場では関係市町村の代表者が主催する祝宴が盛大に開催され、花火が打ち上げられたり山車が練り歩き、屋台等が出店するなどの余興が催されるなど夜まで大変な賑いだったという[10][9][11]。 また、荒川を挟み折り返し運転していた浦和・川越間を運行するバスも同日の14時より全通した[9]。
全長628.18メートル、幅5.5メートル。旧上江橋に似た中間の渡河部分が1スパンの垂直材のある曲弦ワーレントラス構造を持つコンクリート橋であった。高欄および親柱は付近に桜草の自生地であった錦乃原があったことなどから周辺との調和を配慮しつつ[9]、経済的かつ優美なるものを採用し、親柱は人造石を使用して電飾を設けるなど美観にも配慮した[10]。
荒川中流には広い河川敷がとってあるが、何年かごとの増水でこれが一面水浸しになる。治水橋付近では川の左岸が広い。そこで、いくつかの場所で左岸に元の堤防から直角に、川に向けて突き出た横堤を作り、それによって河川敷にあふれ出た水勢を弱めることにした。治水橋の箇所では馬宮第一横堤が1929年(昭和4年)11月13日に着工し、橋の工事と並行して工事が進み、1934年(昭和9年)3月31日に完成した[12]。治水橋は左岸でその横堤に接続し、道路が横堤の天端を通る。 また、その後の交通量の急増に伴い歩行者や自転車が危険に晒されるようになったため、1974年(昭和49年)に上流側に幅員1.5mの歩道専用の側道橋が架橋され、歩行者・自転車はここを通るようになった[10]。
この初代の橋は1993年(平成5年)に新しい橋ができたときに取り壊されたが、びん沼川高架橋の南端そばに、トラスを構成する下弦材と垂直材の一部が治水橋メモリアル・モニュメントとして、齊藤治水翁彰功碑の脇に保存されている[13]。また、横堤上の初代の橋の取り付け道路も廃道として残されている。なお齊藤治水翁彰功碑は元々は1951年(昭和26年)に治水橋の西詰に建立されていたが、びん沼川高架橋の整備の際に1995年(平成7年)に現在の場所に移設され、その彰功碑移設の経緯を記した石碑が設立された。橋の解体はトラッククレーンによる一括撤去工法を用いて行われた[14]。 橋の名称は、橋の右岸の馬宮村飯田新田(現在のさいたま市内)で生まれ、荒川の治水に功があった埼玉県会議員斉藤祐美の号「治水」から付けられた[15]。この地点での架橋は県議選での斉藤の公約の一つでもあった[16]。
1993年の橋
後、老朽化が進んだのをみて、地元の住民と政治家が「治水橋架橋期成会」を作って埼玉県に働きかけた。新しい橋は1993年(平成5年)6月に古い橋より少し川上側の位置に永久橋として竣工した。長さ833.1メートル。
右岸の堤防に達すると長さ377.5メートル[17]のびん沼川高架橋に接続し、大きく南にカーブして、びん沼川と何本かの道をまとめて越える。びん沼川高架橋は、新しい治水橋のために作られ同時期に竣工した橋である。それまで県道は荒川右岸の堤防沿いに北上し、丁字路の信号を右折して治水橋に入っていたため、これにより堤防から平地への坂の傾斜が緩み、車の流れがよくなった。
周辺
この辺りの荒川では鮒や鯉が釣れる。1979年、1985年に実施された魚類捕獲調査では、ゲンゴロウブナが優占し、他に両年にまたがって捕獲されたのはニゴイであった[18]。
河川敷は水田、ゴルフ場、運動場に利用されている。
- 東京健保組合大宮運動場
- 埼玉県警察 機動センター
- さいたま市立馬宮東小学校
- さいたま市立馬宮西小学校
- さいたま市立馬宮中学校
- 川越東高等学校
- 萱沼びん沼公園[1]
- 錦乃原桜草園
- 大宮カントリークラブ
風景
- Saitama Zisui-basi 1.jpg
右岸高水敷より
- JisuiHashi.jpg
左岸、下流側から見た治水橋(2004年1月)
- Saitama Old Jisui Bridge Remains 1.JPG
旧治水橋跡の横堤と廃道
- Saitama Binnuma River Viaduct 1.JPG
びん沼川高架橋
- JisuiHashi2.jpg
橋の上からさいたま市街地方面を望む
隣の橋
脚注
参考文献
- 大宮市『大宮のむかしといま』、1980年。
- 「馬宮のあゆみ」刊行委員会編集発行『馬宮のあゆみ〜荒川の流れとともに〜』、1992年11月5日。
- 埼玉県『荒川 自然』(荒川総合調査報告書1)、1987年。
- 埼玉県『荒川 人文II』(荒川総合調査報告書3)、1988年3月5日。
- 斎藤祐美研究会『荒川の治水翁 斎藤祐美』、埼玉新聞社、2007年。
外部リンク
- 【橋りょう】 治水橋〔さいたま市〕 - 埼玉県ホームページ
- 西区の今昔「河川」 - さいたま市西区
- テレメータ水位 (国土交通省荒川上流河川事務所)
- ↑ テンプレート:PDFlink98p - 国土交通省 関東地方整備局
- ↑ 橋梁年鑑 治水橋 詳細データ - 日本橋梁建設協会
- ↑ テンプレート:PDFlink - さいたま橋物語(埼玉県ホームページ)
- ↑ 『大宮のむかしといま』224頁。
- ↑ 5.0 5.1 『馬宮のあゆみ〜荒川の流れとともに〜』233頁、
- ↑ テンプレート:PDFLink - さいたま市西区ホームページ
- ↑ 東京朝日新聞、1934年7月24日
- ↑ 『荒川 人文II』232頁によると総工費は29万1980円と記されている。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 『馬宮のあゆみ〜荒川の流れとともに〜』234頁、
- ↑ 10.0 10.1 10.2 『荒川 人文II』232頁
- ↑ 東京朝日新聞、1934年7月24日。
- ↑ 『大宮のむかしといま』226頁。
- ↑ 『荒川の治水翁 斎藤祐美』84-87頁。
- ↑ 鋼橋の解体・撤去 - 株式会社 横河ブリッジ
- ↑ 『大宮のむかしといま』226頁。
- ↑ 『荒川の治水翁 斎藤祐美』52頁。
- ↑ 橋梁年鑑 治水橋(取付部) 詳細データ - 日本橋梁建設協会
- ↑ 『荒川 自然』547頁。1979年はゲンゴロウブナ21、 ニゴイ7、キンブナ2。ギンブナ5。1985年はゲンゴロウブナ65、ニゴイ2、オイカワ4、ツチフキ・ハス・ワタカ・ナマズ各1。