沮鵠

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沮 鵠(そ こく、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将冀州広平郡の人。袁紹配下の沮授の子。叔父は沮宗。

正史の事跡

姓名 沮鵠
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 冀州広平郡
職官
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁尚
家族・一族 父:沮授 叔父:沮宗

袁紹の子の袁尚配下。建安9年(204年)春、袁尚は兄の袁譚を攻撃しようと図り、幕僚の審配に鄴を守備させ、沮鵠には邯鄲を預けて審配と連動させた。まもなく曹操が鄴を攻撃してきたが、容易に陥落させることができないと見て、周辺地域の掃討へと作戦転換する。同年夏、曹操軍は邯鄲を攻撃し、沮鵠も防戦したが、敵し得ずにまもなく陥落した。その後、沮鵠の名は史書に見えない。

物語中の沮鵠

小説『三国志演義』でも袁尚配下として登場し、審配の指示により邯鄲を守備する。曹操の部将張遼が攻め寄せてくると、沮鵠は出陣してこれと一騎打ちをするが、3合もせずに劣勢となって逃走したところを、張遼の矢に射られて落馬、死亡した。

参考文献