沮鵠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
沮 鵠(そ こく、生没年不詳)は、中国の後漢時代末期の武将。冀州広平郡の人。袁紹配下の沮授の子。叔父は沮宗。
正史の事跡
姓名 | 沮鵠 |
---|---|
時代 | 後漢時代 |
生没年 | 〔不詳〕 |
字・別号 | 〔不詳〕 |
本貫・出身地等 | 冀州広平郡 |
職官 | 将 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 袁尚 |
家族・一族 | 父:沮授 叔父:沮宗 |
袁紹の子の袁尚配下。建安9年(204年)春、袁尚は兄の袁譚を攻撃しようと図り、幕僚の審配に鄴を守備させ、沮鵠には邯鄲を預けて審配と連動させた。まもなく曹操が鄴を攻撃してきたが、容易に陥落させることができないと見て、周辺地域の掃討へと作戦転換する。同年夏、曹操軍は邯鄲を攻撃し、沮鵠も防戦したが、敵し得ずにまもなく陥落した。その後、沮鵠の名は史書に見えない。
物語中の沮鵠
小説『三国志演義』でも袁尚配下として登場し、審配の指示により邯鄲を守備する。曹操の部将張遼が攻め寄せてくると、沮鵠は出陣してこれと一騎打ちをするが、3合もせずに劣勢となって逃走したところを、張遼の矢に射られて落馬、死亡した。