江崎利一

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テンプレート:Infobox 人物 江崎 利一(えざき りいち、明治15年(1882年12月23日 - 昭和55年(1980年2月2日)は日本実業家江崎グリコの創業者。現社長・江崎勝久の祖父。

経歴

佐賀県神埼郡蓮池村(現佐賀市蓮池町)に生まれた[1]。父は清七、母はタツといって江崎が生まれる二年前から薬種業を始めていた[1]。ときには近在近郷を一軒ずつめぐり歩き、医療の相談相手もつとめていた[1]。暮らしは貧しかった[1]。長男だった江崎は家事の手伝いや弟妹の子守りに明けくれた[1]

1897年春、小学校高等科を卒業した[2]の商売のほかに朝食前の売りを始めた[3]1901年6月、父が亡くなった[3]。弟妹をかかえた六人の家族の全責任を19歳の江崎が一身に背負う立場になって、以前にもまして商売に励んだ[4]登記代書業を始めた[5]

牡蠣(カキ)に含まれるグリコーゲンから「グリコーゲンの事業化」を思いついた。

アメの中に、牡蠣エキスからとったグリコーゲンを入れた試作品を、つぎつぎと作るようになった[6]

1921年4月、41歳の江崎は一家をあげて大阪に移住した[7]

家族・親族

江崎家

佐賀県神埼郡蓮池村(現佐賀市蓮池町)、兵庫県西宮市
1901年6月、59歳で亡くなった[3]。江崎の生家は貧しくその貧しさの中で父・清七は次のように江崎をさとした[6]
「金を借りている人の前では、正論も正論として通らぬ。正しい意見を通すためにも、まず貧乏であってはならない。浪費をつつしみ、倹約につとめ商売に精を出して、ひとかどの資産を積んでもらいたい。しかし、くれぐれも注意したいことは、金を作るために金の奴隷になってはならない。世の人から吝嗇(りんしょく)といやしめられてまで金を作ろうとしてはならない。そして金ができたら交際や寄付金身分相応より少し程度を上げてつとめていけ。それで金をこしらえていくのでなければ、りっぱな人間とはいえない」[6]
  • 母・タツ[1]
1918年10月没[7]
タネ[1]
タメ[1]
  • 弟・清六[1]
タヨ[1]
タミ[1]
イマ旧姓中溝[8]
1906年3月、父の親友だった岸川豊次の媒酌で、隣村の諸富に住む中溝イマと結婚した[8]見合いでもなければ恋愛でもなかった[8]結婚式の当日二人は初めて顔を合わせた[8]。イマは1919年病没した[8]
エキ旧姓秋山[7]
エキとの再婚は、先妻と同じく岸川豊次の媒酌で結ばれた[7]。エキは巨勢村出身で、叔父に海軍少将秋山虎六がいた[7]
グリコーゲンの事業化」が江崎の頭にこびりつくようになったころ、10歳になったばかりの長男・誠一がチフスにかかり医師もサジを投げるほどの衰弱であった[9]。このとき、江崎は医師の許可をえて子供の生命をかけた牡蠣エキスの試飲を誠一に行なった[9]。この試飲を境に、誠一の病状は快方に向かい、食欲も出、体力も回復してきた[9]。このことがあってから「グリコーゲンの事業化」は、しだいに江崎の頭の全領域を占めるようになった[9]

参考文献

  • 『私の履歴書 経済人7』 日本経済新聞社 1980年 141-201頁
  • 『日本の創業者 近現代起業家人名事典』(2010年、編集・発行 - 日外アソシエーツ株式会社)51頁

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

  • 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 『私の履歴書 経済人7』145頁
  • 『私の履歴書 経済人7』147頁
  • 3.0 3.1 3.2 『私の履歴書 経済人7』148頁
  • 『私の履歴書 経済人7』149頁
  • 『私の履歴書 経済人7』150頁
  • 6.0 6.1 6.2 『私の履歴書 経済人7』160頁
  • 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 『私の履歴書 経済人7』161頁
  • 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 『私の履歴書 経済人7』152頁
  • 9.0 9.1 9.2 9.3 『私の履歴書 経済人7』159頁