正木時忠
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正木 時忠(まさき ときただ、1521年 - 天正4年8月1日(1576年8月24日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。正木氏の一族で勝浦正木氏当主。正木時綱の三男。兄に正木時茂(初代)。子に正木時通、正木頼忠。左近大夫。
安房国の里見氏の家臣であったが、上総国の武田氏の内紛への介入を里見義堯から命じられた兄の時茂は、1544年に真里谷朝信を討ち取るなど、東上総をまたたくまにその傘下におさめていった。時忠は1542年に上総の要衝の一つである勝浦城を任され、勝浦正木氏を興し、朝信から奪った大多喜城に入った時茂(大多喜正木氏)を補佐することになる。東上総の軍権を任された兄の時茂に従い、武田氏の残党や下総国の千葉氏など近隣の勢力と戦ったり、上総に海を越えて勢力を伸ばそうとする相模国、武蔵国の後北条氏と争い、いずれも功を挙げたという。
兄の時茂の死後は、弱体化した大多喜正木氏に代わり正木氏の実力者となっていたが、次第に里見氏からの自立を志向するようになる。1564年、第二次国府台合戦後に北条氏康に接近し、子の時長(頼忠)を人質として氏康に差し出し、軍事的な支援を受けるようになった。その後は後北条氏の傘下の勢力として里見氏と争ったが、後北条氏が駿河国を巡って甲斐武田氏との抗争を繰り広げるようになると、思うような支援が得られなくなったため、まもなく里見氏方に帰参したものと推測されている。
時忠は勝浦を拠点に、周辺の海賊を取りまとめたといわれているテンプレート:要出典。
1576年に56歳で死去。法名は威武殿正文目出居士。
参考文献
- 戦国人名辞典編集委員会 『戦国人名辞典』正木時忠の項(大石泰史)
- 『後北条氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2006年、ISBN 4490106963