柴田勝豊
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柴田 勝豊(しばた かつとよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
生涯
弘治2年(1556年)、柴田勝家の家臣・吉田次兵衛の子(またはその養子で渋川八左衛門の子)として生まれる。生母は柴田勝家の姉であり、勝家の甥にあたることから、その養子となった。天正4年(1576年)、北ノ庄城の支城・丸岡城を築き、その城主となって4万5,000石を領した(『武家事紀』[1])。
天正9年(1581年)、織田信長の京都馬揃えでは勝家とともに上洛し、参加した。
天正10年(1582年)6月、信長死後の清洲会議で勝家の所領となった近江長浜城の守備を任された。しかし、勝家が同じ養子の柴田勝政を優遇して自分を冷遇することと、従兄にあたる佐久間盛政と仲が悪いことなどもあって、12月に羽柴秀吉の家臣・大谷吉継の調略を受けて、長浜城ごと羽柴方に寝返った。
しかしすでに病を得ていたため、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは家臣を代理として参戦させた。賤ヶ岳の戦いの直前、京都東福寺にて病死した。享年28。勝家滅亡の8日前のことであった。