杉浦正則
テンプレート:Infobox baseball player テンプレート:MedalTop テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalSilver テンプレート:MedalBronze テンプレート:MedalBottom 杉浦 正則(すぎうら まさのり、1968年5月23日 - )は、和歌山県出身の野球選手(投手)。
社会人野球や日本代表のエースとして活躍し、「ミスターアマ野球」と呼ばれる。日本生命硬式野球部元監督。
経歴
学生時代
和歌山県伊都郡九度山町出身。九度山町立九度山中学校、和歌山県立橋本高等学校、同志社大学商学部卒業。
橋本高校時代は、テンプレート:Byの春季高校野球和歌山県大会の優勝投手となる。同志社大学時代には、同じ回生だった長谷川滋利(立命館大学)とともに同立戦を大いに盛り上げた。関西学生リーグで通算57試合に登板し、23勝14敗、防御率1.57。1990年秋季のリーグ戦で5勝を挙げて14季ぶりの優勝に貢献し最優秀選手に選ばれた。続いて出場した明治神宮野球大会でも優勝を果たした。
社会人時代
テンプレート:Byに大学を卒業し、社会人・日本生命に入社。翌年のバルセロナオリンピックで日本代表に選出され、銅メダル獲得に貢献した。4年後のアトランタオリンピックでも日本代表に選出され、銀メダルを獲得。
たびたびプロ入りの誘いがあったが、オリンピックで日の丸を背負うことを目標として拒み続けた[1]。テンプレート:Byの日本選手権を観戦したボビー・バレンタイン(ニューヨーク・メッツ監督)が、杉浦のピッチングに感銘を受けて「来シーズンからメッツで投げて欲しい」とコメントしたが、杉浦は意に介さなかった。このようなアマチュア精神を称え杉浦は「ミスターアマ野球」と呼ばれる[2]。オリンピック通算5勝は世界記録である[3]。
テンプレート:Byのシドニーオリンピックでは、一部プロ選手が参加することが確定していたことから代表入りが困難視されていたが、経験を買われて代表入りを果たした[4]。結果としてメダル獲得はならなかった。
2000年のシーズン後に現役を引退。通常社会人野球選手の引退がスポーツ紙などで記事になることはないが、杉浦引退の報はスポーツ紙で取り上げられたほか、週刊ベースボール誌でもカラーグラビアで取り上げられた。杉浦が在籍していた10年間、日本生命は都市対抗野球大会に連続出場を果たしている。このうち2回優勝しており、杉浦は2回ともMVPにあたる橋戸賞を獲得している[2]。
引退後
テンプレート:Byからテンプレート:Byまでの4年間、投手コーチとしてチームを支えた。2005年は社業に専念したが、テンプレート:Byからは監督に就任。同年の社会人野球日本選手権大会でチームを決勝まで導いたが、富士重工業の前に屈し、準優勝に終わっている。テンプレート:Byシーズン終了後に監督を退任した[5]。
2010年よりNHKで高校野球の解説を担当[6][7]。夏大会(甲子園)3日目第1試合「中京大中京VS南陽工」戦のテレビ中継で初解説。
主な記録・表彰
- 社会人ベストナイン(投手):1回 (1997年)
- 社会人ベストナイン特別表彰:2回 (1996年、2000年)
- 都市対抗野球橋戸賞:2回 (1992年、1997年)
- 都市対抗野球10年連続出場表彰(2000年)
- オリンピック通算勝利 5勝(オリンピック記録)
脚注
関連項目
- オリンピック野球競技メダリスト一覧
- 和歌山県出身の人物一覧
- 同志社大学の人物一覧
- 松山秀明 - 九度山中学校の先輩。
- ↑ 古谷禎一 (2008-05-26). 好きなことひたむき 日本生命野球部監督 杉浦正則さん 九度山町出身<5> 読売新聞. 2010年10月7日閲覧。
- ↑ 2.0 2.1 週刊北京五輪:オリンピアン採訪 杉浦正則さん 毎日新聞 (2008-07-05). 2010年10月7日閲覧。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 山下弘展 (2010-08-19). 甲子園、我々が解き明かす テレビ解説者 放送局に個性 朝日新聞社. 2010年10月7日閲覧。
- ↑ NHK甲子園2010 NHK. 2010年10月7日閲覧。