最上義康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 武士

最上 義康(もがみ よしやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将山形藩主最上義光の長男。

経歴

天正3年(1575年山形城最上義光嫡男として生まれる。最上氏を継ぐにたる英邁の資質で、心優しかったと伝わる。少年期より父に従い出羽各地を転戦し着実に武功をあげていた。

天正12年(1584年)義光が寒河江氏を滅ぼすと文禄年間(1592年1596年)に旧寒河江氏所領を父から受け継いだという。 天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。

父・義光が豊臣秀次の謀叛に荷担したとして豊臣秀吉から嫌疑をかけられた際は、赦免を願い祈祷を行って父を感激させた[1]。また、娘、駒姫を失った大崎夫人(義康母)は娘の後を追うように亡くなったとされるが、義康が政務をとる寒河江城からほど近い、寒河江正覚寺[2]で菩提を弔ったという逸話も伝承されている。


慶長5年(1600年)の、関ヶ原の戦いに関連する慶長出羽合戦では、父の命令を受けて従兄弟の伊達政宗に救援を依頼した。また上杉勢から射撃を受け窮地に陥った父を救っている。関ヶ原の敗報に触れた上杉本隊が撤退すると、庄内攻めの総大将を任され慶長6年(1601年)3月までに庄内地方全域を攻略した。

父の義光と仲は当初は良好であったが、義光の近臣・里見民部、里見権兵衛と義康の近臣・原八右衛門(元上杉家臣)が父子離反をはかり双方に讒言したことから徐々に仲が険悪となった。折悪しく義康が寺に赴いた際、あやまって股を傷つけたのを里見が「若殿は大殿を恨み、自害しようとした」と義光に言上したためさらに仲が悪化した。このことは単純な父子の感情悪化だけではなく、徳川家康が義光の次男・最上家親を近侍として召し使い、大層気に入っていたため、彼に最上氏を継がせたいと考えたことがあったと言われている。

1602年慶長7年)、義光がこのことを徳川家康に語ったところ、家康は本件を不快に思い「そのような子は切腹させるがよい」と述べたというが定かではない。しかし慶長7年以降、旧寒河江氏所領も弟、家親が支配するようになり安堵状が残る。

帰国した義光はいったん義康を城に呼び寄せるも、家臣らは彼に高野山に退去せよと義光の言葉を伝えた(ただし地理的に高野山は相当遠く、また山形から庄内経由で向かおうとしたのには無理が感じられる)。義康が重臣・浦山源左衛門らと高野山へ向かう途中、土肥半左衛門ら20名余に矢と鉄砲を射かけられた。源左衛門は即死、義康は臍を撃たれ自刃した。丸岡での狩猟中に「上意」を称した一団が襲撃したという説もある。

義光は義康の首を見て涙した。彼は義康の遺品を調査し、父への武運祈願を記した日記を目にする。義光は我が子の死を深く悲しみ、家臣・斎藤光則に本件の調査を命じた。危険を察した里見民部は山形を去り、加賀前田家に逃れようとしたが義光の訴えにより引き渡された。民部は山形へ護送中、山賊に襲撃され死亡した。斎藤光則の手の者による粛清とも考えられる。義光は自らの死の前、後継者である最上家親に向かって「自分の死後、即座に里見一族を粛清せよ」と密かに命じていた。この遺言を受けた家親の粛清により、里見一族の大半は殺害された。一方、民部の甥にあたる里見重勝は、民部に父を殺されたことから一族粛清に加担した。一説によれば、里見・原は豊臣方に通じていたともいう。

義光は義光山常念寺[3]を義康の菩提寺とし、また追善のため仏像をつくり手厚く葬った。息子の死後、義光は病がちになったとも伝わっている。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』、1994
  • 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 中巻』、1999

外部リンク

関連項目

テンプレート:Japanese-history-stub
  1. 大沼大行院(朝日町)に立願状が残る。『寒河江市史 中巻』p.15-16
  2. 義光山常念寺住職岌讃専阿開山。慶長年間開山という。大崎夫人が使用したと伝わる遺品が残る。後世慈恩寺から移築されたと伝わる正覚寺阿弥陀堂には最上氏の家紋(丸に二つ引両)とともに、五七の桐紋が描かれている。
  3. 慶長4年義光が100石の黒印地を与えたのに始まる。同年後陽成天皇の勅願寺の勅許を得る。出羽国浄土宗寺院は全て常念寺の配下に入った。(『寒河江市史 上巻』p.914-915)