早川徳次 (東京地下鉄道)
早川 徳次(はやかわ のりつぐ、明治14年(1881年)10月15日 - 昭和17年(1942年)11月29日)は東京地下鉄道(後、帝都高速度交通営団→東京地下鉄)の創業者である。日本に地下鉄を紹介・導入し、「(日本の)地下鉄の父」と呼ばれる。
略歴
地下鉄に出逢うまで
山梨県東八代郡御代咲村(後の一宮町、現在の笛吹市)に生まれる。父の常富は御代咲村の村長を、長兄の富平は山梨県会議員を務めた人物である。旧制甲府中学(現在の山梨県立甲府第一高等学校)を経て第六高等学校(現在の岡山大学)に入学したものの、2年の時に病気になり、中退を余儀なくされた。その後、上京して早稲田大学に入学。父や兄と同じように政治家を志し、在学中に後藤新平の書生となった。卒業後は後藤が総裁を務める南満州鉄道(満鉄)に入社した。後藤が逓信大臣と鉄道院総裁に就任すると満鉄を辞め、鉄道院に入局する。そこで東武鉄道の二代目社長にもなった根津嘉一郎 (初代)と出会う。
早川が鉄道と本格的に関わるようになるのは郷里の先輩である根津に見出されてからである。根津が株を取得していた佐野鉄道(現在の東武佐野線)は苦しい経営状態が続いていた。根津は早川の腕を見込んで同社の立て直しするよう依頼し赴任することとなり、見事に立て直すことに成功した。続いて根津は、沿線開発が進まず予想より輸送量が低迷したことや、高コスト体質が元で赤字経営が続いていた高野登山鉄道(現在の南海高野線)を任せると、この会社も2年半ほどで立て直し、期待に応えた。これらによって根津の右腕となり辣腕を振るった。
大正3年(1914年)に国際事情視察の為、欧州を訪問。そこでロンドンにおいて地下鉄が発達しているのを目の当たりにし、またグラスゴーではゆとりを持った乗車(乗車できるのは座席数に加えて4人まで)が実際に行われているのに衝撃を受け、これからは東京にも地下鉄が必要だと考えるようになる。
地下鉄建設と開業
初めは公共交通として鉄道省や自治体に建設を働きかけたものの、早川の先見性は全く理解されなかった。東京の軟弱地盤の地下に構造物を建設するということについて、技術的・資金的に無理だと判断されたことや、事業として成り立つか不透明であったことが要因だった。仕方なく私営で建設を決意しあちこちに働きかけたが、同様に理解はほとんど得られなかった(数少ない理解者に後藤新平や渋沢栄一がいる)。
橋の建設で使われた地層図を取得し、軟弱な地層の下に固い地層があり、そこに建設すれば問題がないこと、豆を使った交通量調査を行い、その結果から事業として十分成り立つことなどを説得材料に、苦労を重ね少しずつ賛同者を募り投資家や金融機関への粘り強い説得を行い、遂に独力で、1919年(大正8年)11月17日に鉄道院から地下鉄営業免許を取得(この免許の条文に『東京市が地下鉄を買い取る時には、それを拒めない』という文言があった)し、大正9年(1920年)8月29日に創立総会が紛糾する場面があったものの、東京地下鉄道株式会社を設立、社長には工学博士の古市公威が、取締役には根津も名を連ね、早川は常務取締役に就いた。大正14年(1925年)9月27日に浅草 - 上野の地下鉄工事を開始する。この間に、社長が野村龍太郎に代わり、早川は専務取締役になっている。設立後も関東大震災が起きたり、建設工事も難工事の連続で何度も事故が起きたりするなど数々の困難を乗り越え、昭和2年(1927年)12月30日に浅草駅から上野駅まで開業させた。現在の東京メトロ銀座線の同区間である。
ようやく開通した浅草駅 - 上野駅間につづき、順次路線延長を進めていく。資金繰りが決して順調に行かない時でも安全を第一に考え、全鋼・難燃化車輌の導入、警戒色を示す車体色(オレンジ色)の採用、打子式ATSの導入を行い、さらに将来の輸送量増加に備え6両編成での運転に対応した設備を整えたり、社員の教育の充実など積極的に推進した。
一方で、小林一三率いる阪神急行電鉄を手本に出入口にビルを建て、その中や地下鉄構内に店舗を配置して収入を増やしたり[1]、定期券利用の通勤客向けに新聞の夕刊を駅入場時に受け取れるサービスを発案したり、デパートの直近にルートを取り、駅とデパートを直接出入りできるように建設する代わりにそのデパートから建設費用を出してもらうようにする[2]など、営業・経理面でも様々な方面で手腕を発揮した。
さらに郊外へ伸びる他の鉄道線への乗り入れも視野に入れたりする(新橋から現在の都営浅草線のルートで品川へ至り、京浜電気鉄道への乗り入れをする考えを持っていた)など、随所に先見性の高さを見せていた。その後、東京地下鉄道は新橋駅まで延伸した。
営団の設立と経営からの引退
しかし、昭和15年(1940年)12月に東急の総帥五島慶太率いる東京高速鉄道(銀座線渋谷駅 - 新橋駅間建設)との間で経営権や駅の設計(五島は3両分のプラットホームを計画していたが、早川は乗客数増加を見込んで6両分のプラットホームを要求)、列車の直通運転に関する争いが勃発。当時の鉄道省の思惑(地下鉄の国営化を目論んでいた)も絡み、東京地下鉄道と東京高速鉄道の和解の条件として早川の引退が含まれ、両社の事業は新設された帝都高速度交通営団(営団地下鉄)に譲渡されることが決まり、地下鉄事業を取り上げられる形で実業界から去ることとなった。
その後、故郷の山梨へ帰り、生家に青年道場を作る計画を立て、実際に道場の建設も進んでいたが、完成を見ることなくこの世を去った。テンプレート:没年齢2。
その後
銀座駅の日比谷線中2階メトロプロムナードの中央部に早川の胸像がある。同じ胸像が地下鉄博物館にもある。
早川徳次は自分の娘に「いつかきっと、東京中がクモの巣のように地下鉄で張り巡らされる日が来るだろう」と言っていたという。早川のその言葉は現在、現実のものとなっている。
帝都物語
荒俣宏の小説『帝都物語』には早川徳次が登場、「地下鉄の建設中、トンネルの中に鬼が出現する為、西村真琴が開発した學天則(ロボット)で駆除して欲しい」と申し出るというものである。ストーリー自体は架空のものであるが、路面電車の乗客流動調査の際に豆を使うという早川が実際に行ったエピソードも挿入されている。映画版では早川を宍戸錠が演じ、エンディングは開業した地下鉄を早川が案内するシーンとなっており、地下鉄博物館で撮影が行われた。
参考文献
- 中村建治『メトロ誕生―地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』交通新聞社、2007年7月。ISBN-978-4-330-93607-9
- 佐藤一美『夢の地下鉄冒険列車 地下鉄の父・早川徳次と昭和を走った地下鉄』くもん出版、1990年4月。ISBN4-87576-534-7
脚注
外部リンク
- 東京地下鉄と創設者早川徳次(地下鉄博物館サイトのインターネットアーカイブ)