生駒トンネル
テンプレート:出典の明記 生駒トンネル(いこまトンネル)とは、大阪府東大阪市と奈良県生駒市の境にある生駒山を東西に貫く、近畿日本鉄道けいはんな線の新石切駅 - 生駒駅間にある鉄道トンネル(全長4,737m)、およびかつて同社奈良線の孔舎衛坂駅 - 生駒駅間にあった鉄道トンネル(全長3,388m)である。生駒山地を迂回する西日本旅客鉄道(JR西日本)の路線に対し、近鉄線はこのトンネルによって大阪と奈良を短距離で結んでいる。
奈良線の生駒トンネルは新生駒トンネル(全長3,494m)の開通により1964年(昭和39年)に鉄道トンネルとしての使用を終えた。その後、奈良線の旧トンネルを一部再利用する形でけいはんな線の生駒トンネルが1986年(昭和61年)に開通している。本項ではこれら新旧の生駒トンネルに加え奈良線の新生駒トンネルについても扱う。
奈良線 生駒トンネル
奈良線の生駒トンネルは1914年(大正3年)に、近畿日本鉄道(近鉄)の前身である大阪電気軌道(大軌)により開通した。開通当時は中央本線の笹子トンネル(4,656m)に次いで日本2番目の長さであり、また日本初の標準軌複線トンネルであった。その後、1964年(昭和39年)に南側に並行して新生駒トンネルが開通したためこのトンネルは使用されなくなった。
工事は大林組が請け負い、1911年(明治44年)に着工された。建設は地質の変化や湧水等に悩まされ、予想外の難工事となった。工事費用が見込みを上回ったため、当時の大軌社長である岩下清周は、私財を叩いて建設を続行させたという。また1913年(大正2年)1月26日に発生した落盤事故では152名が生き埋めとなり、20名の犠牲者が出た。なお、工事には朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も従事しており、この事故でも犠牲となった者がいた[1]。
工費の支払いや利用不振から、大軌は同トンネル開通後しばらく社員の給料支払いや切符の印刷費にも事欠くほど経営が行き詰まり、取締役支配人の金森又一郎が生駒山にある宝山寺へ賽銭を借りに行った。また建設した大林組も、大軌による建設費の支払い遅延から一時経営危機に陥った。しかし、そのような状況にもかかわらず、大林組は手抜きをせず最高の資材を使って工事を進め、検査に来た監理局員がその質の高さに驚かされたというエピソードが残っている。
1946年(昭和21年)4月16日にトンネル内で発生した車両火災では23名が死亡し75名が負傷、翌1947年(昭和22年)に再び発生した火災では約40名が負傷した。
さらに1948年(昭和23年)3月31日には急行列車がトンネル内を走行中に空気ブレーキ(直通ブレーキ)を破損、大阪平野に向かう下り勾配を暴走し、河内花園駅で先行の普通列車に追突、49名が死亡、282名が負傷する大惨事が発生した(近鉄奈良線列車暴走追突事故)。
旧トンネルは使用停止後も新生駒トンネルやけいはんな線生駒トンネルとの交通があり、また高圧電流の通る電力設備が設置されている。このため旧トンネルは部外者の立ち入りが禁止され、大阪側坑口は近鉄により厳重に管理されている。近鉄主催の創業100周年記念産業遺産ツアー等、一般に公開された事が数回ある。
奈良線 新生駒トンネル
新生駒トンネルの建設案[2]
断面が狭小で大型車両を運行できない旧生駒トンネルは奈良線の輸送力増強の支障となっていたため、大型車両を通すための方策が検討された。
まず、在来トンネルの拡築案として、在来トンネルを夜間列車運転休止時間中に拡築するものと、在来トンネルを単線用として使用し新たに単線トンネルを建設するものの2案が検討された。前者については、列車運行に対する危険性や長期間の工期、大阪坑口付近にある急曲線の改良ができない点などから実施不可能とされた。後者については、在来トンネルを単線に使用するためには約15cmの盤下げ工事が必要なこと、建設費が複線新トンネルに比べて割高なこと、大阪坑口の急曲線改良ができないことなどから、複線新トンネルの建設方針が固まった。
次に、新トンネルの路線として以下の4つの案が検討された。
- 石切駅から孔舎衛坂駅北側を通り生駒に至る路線(トンネル延長3,820m)
- 石切駅から孔舎衛坂駅南側を通り、生駒駅大阪方で現在線に接続する路線(トンネル延長3,388m)
- 瓢箪山駅と生駒駅をほぼ直線に結ぶ路線(トンネル延長5,530m)
- 瓢箪山駅から南生駒を経て富雄駅大阪方で現在線に接続する路線(トンネル延長4,990m)
第1案は工期、工費、用地買収の面で第2案に劣り、第4案が奈良線の重要駅であり生駒鋼索線との連絡駅でもある生駒がはずれる点で実現の可能性が薄いことから、第2案、第3案が主に論議の的となった。第2案は、工期、工費、用地買収、トンネル工事の容易さで優れており、第3案は奈良線本線の線形、運転面で優れていた。最終的に、第3案は瓢箪山~生駒間に残る在来線が大型車の通れない支線となり運転面の障害となること、乗車率が300%に達すると推定される昭和40年初頭までに完成させることはトンネルの工期の点で無理であると考えられたため、第2案が採用された。
新生駒トンネルの完成とその後
上記の結果、在来トンネルの南側に並行して新生駒トンネルが建設された。着工は1962年(昭和37年)で、1964年(昭和39年)7月23日に供用を開始している。これに伴う線路の付け替えにより、西側(大阪側)坑口近くにあった孔舎衛坂駅が廃止され、石切駅もそれ以前の駅より0.2km奈良寄りにあった鷲尾トンネルを開削し、そこに移設した。
トンネル西坑口には当時の社長である佐伯勇揮毫による「日々新」、東坑口には「又日新」の扁額が掲げられている。
2009年3月20日からは阪神なんば線開業により、近鉄のみならず阪神電鉄の車両もここを通るようになった。ただし、使用される阪神の車両は近鉄の保安機器と抑速制動を装備された1000系・9000系に限られる。
けいはんな線 生駒トンネル
近鉄けいはんな線(当時は東大阪線)の生駒トンネルは1986年(昭和61年)に開業した。東側(生駒側)坑口付近は1964年(昭和39年)まで使われていた奈良線旧生駒トンネルの一部 (395m) を拡幅、再利用したものである。それより大阪側は新たに掘削された。トンネル内からの緊急脱出路は旧生駒トンネルの大阪方坑口近くに通じている。なお、トンネル坑口には当時の会長である佐伯勇揮毫による「一任天機」の扁額が掲げられている。
当トンネルは途中で新生駒トンネルの下を、さらに西坑口付近で奈良線額田 - 石切間の地下をくぐり、奈良線と2回交差する。
工事中の1984年(昭和59年)3月28日、西坑口(新石切駅)側導坑切羽付近で湧水による地表陥没事故が発生した。また、供用開始後の1987年(昭和62年)9月21日にはトンネル内で漏電によるケーブル火災が発生して通過中の電車が立ち往生し、1名が煙に巻かれ死亡する事故が発生したが、これを受けて消火設備・連絡設備の整備や当トンネルについては救急用工作車の配備が行われた。
大阪市営地下鉄中央線所属の車両は、当トンネル内にある連続勾配に備えて抑速ブレーキを完備している。