新潟明和騒動
新潟明和騒動(にいがためいわそうどう)とは、1768年(明和5年)越後国新潟町(現新潟県新潟市)において町民が藩政に抵抗しおよそ2ヶ月にわたる町民自治を行なった事件。
経緯
当時新潟町は長岡藩の支配下にあり、正徳3年(1713年)に仲金制が敷かれて以降、新潟町の御用金は長岡藩の重要財源となる。加えて長岡藩の土地柄による恒常的な洪水や飢饉、宝暦3年(1753年)に長岡藩の重要財源の一つである長岡船道の信濃川水運特権が近隣の藩の苦情を受けての幕府の裁定により剥奪となったことで新潟町の御用金の重要度は増す傾向にあった。
前年からの飢饉もあって長岡藩は1767年(明和4年)新潟町に1,500両の御用金を2年の分納で課した。しかし、飢饉による米の流通の減少から新潟湊への入港量が減少しており新潟町もまた不景気に苦しんでいた。さらに米の高騰もあって困窮していた新潟町民は2年目の750両を工面できなかった。
町民は涌井藤四郎(わくい とうしろう)らを中心に延納の嘆願書を出すべく寺に集まったが八木屋市兵衛がこれを徒党として密告。代表者の涌井は町奉行所に出頭を命じられ投獄された。これに激昂した町民は9月26日の夜12時頃、早鐘を合図に一斉蜂起し、町役人宅や八木屋市兵衛宅、米屋などを打ち壊した(この時、打ち壊し騒動の指揮を取った黒装束の男数名がいたと言われる)。新潟町奉行側は鉄砲隊で攻撃したが町人側は薪を投げて応戦し町役人を敗走させた。
事態の沈静化を図った町奉行側は涌井を釈放。打ち壊しは翌日も行なわれたが、涌井は町奉行所打ち壊しに向かっていた町民等を説得、事態は沈静化した。これにより涌井らが藩に代わって町政を掌握し約2ヶ月にわたる町民自治を行なった。
長岡藩は新潟への派兵を試みたが町民側は新潟港での藩兵の荷降ろし作業を拒否。町民側の結束に長岡藩も涌井を総代として承認せざるを得なかった。長岡藩は町民懐柔の為、米1,000俵の配給を実施。さらに当事者であった町役人等を取り調べる為と称し町人側の関係者を次々に召喚した。11月22日に長岡藩へ出頭した涌井らは藩側の策略により捕らえられた。
長岡藩は事件の首謀者と目された黒装束の男等を捜索したがついに捕らえることはできなかった。1770年(明和7年)8月25日、涌井は一切の責めを負わされ腹心の須藤佐次兵衛(すどう さじべえ、岩船屋佐次兵衛)と共に市中引き回しの上斬首された。涌井の首は往来に晒されたが彼に恩のあった女性が役人の目を盗んで首を奪い密かに葬ったと伝えられる。
涌井らは後に義人として墓や慰霊碑が建てられ、明治になってからは新潟市の古町愛宕神社内に佐倉惣五郎を分霊した口之神社を建てて祀られた。新潟市の白山公園内に「明和義人顕彰之碑」がある。
ちなみに『天保十亥年正月 貞享元子年より諸役人留』(1839年頃の史料)によると長岡藩側は従来の新潟町奉行就任者の石垣忠兵衛及び佐野与惣左衛門に加えて大田を新潟町奉行に任命して、本来より1名多い3名体制でことにあたり、明和6年(1771年)に石垣と佐野は新潟町奉行を辞任している。
関連項目
参考文献
外部リンク
- 明和義人祭(8月23日〜25日) 愛宕神社
- 新潟市の神社(にいがた百景) 口之神社
- 日本酒の銘柄(明和義人)火坂雅志著書 新潟樽きぬた由来 今代司酒造 新潟市テンプレート:Japanese-history-stub