持明院

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テンプレート:出典の明記 持明院(じみょういん)は、現在の京都市上京区光照院門跡の付近にあったとされる寺院である。

鎮守府将軍を務めた藤原基頼が邸内に「安楽光院」と呼ばれる持仏堂を創設し、後にこれを「持明院」と名づけたことから、この家系を持明院家と称することとなった。鎌倉時代持明院基家の娘陳子(後の北白川院)は守貞親王の妃になり、茂仁親王(後堀河天皇)を生んだ。承久の乱後、後堀河天皇が即位して、父親の守貞親王には太上天皇の尊号がおくられ、後高倉院と称してここで院政を行った。続いて後堀河天皇の退位後にもここを御所として院政を行った。守貞親王系が断絶後も後嵯峨天皇後深草天皇が退位後の御所に定められたことから、後深草天皇の系統を後に持明院統と称した(対立関係にあった亀山天皇の系統を大覚寺統と呼ぶのも亀山天皇が退位後に大覚寺に住んだ事に由来している)。

後光厳天皇1353年文和2年/正平8年)2月の火事で持明院が焼失すると、以後荒廃して応仁の乱後に後伏見天皇の皇女進子内親王ゆかりの光照院が移転したと伝えられている(ちなみに移転後の一時期に光照院も「安楽光院」を名乗っている)。また、廃仏毀釈まで後深草天皇以下12名の天皇の陵墓が置かれた伏見北陵にあった安楽行院を安楽光院(持明院)の後身とみる説もある。

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