押川方義
テンプレート:Infobox 人物 テンプレート:横浜バンド 押川 方義(おしかわ まさよし、嘉永4年12月16日(1852年1月7日) - 1928年(昭和3年)1月10日、生年に関しては諸説ある)は、日本人のキリスト教宗教家、教育家。東北学院及び宮城学院の創立者。
長男は、冒険小説家の草分け押川春浪(本名、方存)。二男は、プロ野球の生みの親である押川清。
生涯
初期
松山藩士橋本宅次の三男として生まれ、押川方至の養子となる。1869年「横浜英語学校」でキリスト教に触れ、1872年(明治5年)日本最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」(現横浜海岸教会)にて宣教師ジェームズ・バラより洗礼を受けた。青年長老として教会を組織する。
新潟時代
新潟伝道に従事していた宣教師T・A・パームの通訳雨森信成の代役に志願する。1875年(明治8年)12月に新潟に到着し、翻訳通訳などパームの助手をする。途中で、石油開発のために新潟に来た吉田亀太郎の協力も得て宣教活動の結果、新潟教会、東中通教会が形成される。[1]
1878年(明治11年)7月に東京築地の東京公会(新栄教会)第一回全国基督教信徒大親睦会に出席して、迫害の激しい新潟から来て、悲壮なる覚悟で城を枕に討ち死にするんだとの決心を表わした。
仙台時代
1880年(明治13年)に押川と吉田亀太郎が新潟大火災をきっかけに、宮城県への伝道のビジョンを持ち、パームの励ましのもと、9月6日に新潟を立ち、10月10日より北三番町木通り角屋敷に「基督教講義所」の看板を掲げて伝道を開始した。押川と亀田は風呂敷を背負って仙台市内を巡回して聖書販売と路傍伝道を行ったが、伝道は困難を極めた。翌年、1881年(明治14年)に押川は腸チフスを患い、三ヶ月療養生活をする。1881年5月1日に、横山覚、伊藤悌三が押川から洗礼を受ける。これが、仙台日本基督教会(現・日本基督教団仙台東一番丁教会)の創立記念日になった。
吉田と押川は仙台に拠点をもったが、仙台と新潟を絶えず往復して、その途中にある福島と会津の伝道を行った。押川と吉田が福島で宿泊して一番大きな家から伝道を始めると、小此木信六郎が出てきて、彼らの伝道により直ぐ洗礼を志願して、洗礼を受けた。
1883年(明治19年)5月に上京して、東京築地の新栄教会で開催された第三回全国基督教信徒大親睦会に出席する。横浜海岸教会で始まった明治のリバイバルの影響で熱狂的な集会になった。押川は仙台に打電して、「非常時来た、集まりて熱心に祈れ」と教会員に指令を出した。[2]
1885年の夏には福島県の鐸木三郎兵衛の紹介で、飯坂小学校を会場にキリスト教演説会が行われ、植村正久、押川方義、グイド・フルベッキなどが伝道の演説をした。1886年には、福島耶蘇教講義所(日本基督教団福島教会)が設立された。吉田亀太郎が初代牧師になった。[3]
教育者
このように、東北地方を中心に伝道活動を続ける中で、1886年アメリカ人ドイツ改革派教会宣教師のウィリアム・E・ホーイとともにキリスト教伝道者育成を目的とした「仙台神学校(現・東北学院)」及び、女子教養教育の普及を目的とした「宮城女学校(現・宮城学院)」を創設した。
山形時代
1886年(明治19年)には、山形県上山市で伝道を開始して、上山教会を設立、1887年(明治20年)には山形教会(日本基督教団山形六日町教会)、1888年(明治21年)には鶴岡教会(日本基督教団荘内教会)1990年には米沢教会(日本基督教団米沢中央教会)を設立した。[4]
政治家時代
1917年(大正6年)4月の第13回衆議院議員総選挙と1920年(大正9年)5月の第14回衆議院議員総選挙で2回、衆議院議員に当選した。