ヌルハチ

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愛新覚羅弩爾哈斉から転送)
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テンプレート:基礎情報 中国君主 ヌルハチ弩爾哈赤満州語20px)は、後金の創始者。の初代皇帝とされる。君主としての称号は満洲語でゲンギェン・ハン、モンゴル語でクンドゥレン・ハーン、廟号太祖 諡号高皇帝である。なお、明の文献では童奴兒哈赤あるいは佟奴兒哈赤朝鮮の文献では老乙可赤あるいは奴兒哈赤、清の文献では弩爾哈齊あるいは弩爾哈奇と記載されている。

生涯

女真の統一

満州族愛新覚羅氏出身。生まれについては諸説あり、はっきりとは不明である。ヌルハチが生まれた頃のジュシェン(女真)族は建州女真五部・海西女真四部・野人女真四部に分かれて、互いに激しく抗争していた。これを利用して明は、朝貢の権利を分散させることで飛びぬけて力の強い部族を出さないようにしていた。具体的な方法としては、建州・海西女真の有力者300名に対して勅書を渡していた。ただしヌルハチが生まれたときには、土木の変でのエセン・ハーン侵攻にあたって勅書が無資格者の手に渡るなど混乱した上、期待していた防壁代わりに全くならなかった反省から、建州女真1000通、海西女真500通をそれぞれの首長に一括して渡すようになり、若干の権力集中が行われるような政策に転換している。しかしその反面、明も放っておけないほど武力抗争が激しくなっていた。

明の遼東司令官李成梁は、明が制御できるほどの大きな勢力を一つ作り、その後ろ盾になることで女真を治めようとした。これに選ばれたのが建州女真の中のヌルハチである。李成梁の思惑は上手く行き、ヌルハチは女真の中の大勢力となり、万暦17年(1589年)には建州女真五部を統一した。それと同時に李成梁の懐に入る賄賂の量も大幅に増えたが、これに気を良くしたのか、ヌルハチの統御を怠っていた。

ヌルハチの急激な台頭に危機感を抱いた海西女真は、結束してヌルハチに領土割譲を求めたが、ヌルハチはこれをはねつけた。なお、この頃からヌルハチは自らの勢力を満州と呼び始めたとされる。万暦21年(1593年)、ヌルハチ率いる満州軍は海西女真を中心とした九部族連合軍と激突し、完勝した。この戦いはグレの戦いと呼ばれる。これにより、女真の諸部族はヌルハチに従うものが多くなり、明はヌルハチに対し竜虎将軍の官職を授けた。なお、李成梁はこの2年前に汚職を弾劾され、更迭されている。

この時期は、明が日本の豊臣秀吉による文禄・慶長の役への対応に忙殺されていたこともあり、明による介入は少なかった。そこを衝いて万暦27年(1599年)にヌルハチは、敵対した海西女真のハダ部を滅ぼした。この前年に日本軍が撤兵したこともあり、明はようやくヌルハチに危機感を抱き始め、海西女真のイェヘ部の後押しをすることでヌルハチに対抗しようとした。

後金の建国、明との戦い

万暦44年(1616年)、ヌルハチは本拠地ヘトゥアラ(hetu ala、赫図阿拉)でハン(han、可汗)の地位に就き、国号を(aisin)、元号天命(abkai fulingga)とした。前後して、テンプレート:仮リンク(額爾德尼)とテンプレート:仮リンク噶盖)に命じてモンゴル文字を改良した満州文字(無圏点文字)を定めた。また、八旗制という軍事組織を創始した。このことで、満州人が勢力を拡大する基盤が固められた。

天命3年(1618年)、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定した。この文書の中には、明がイェヘに加担して満州を攻撃すること、祖父ギオチャンガと父タクシが明に誤殺されたことなどが書かれている。明はイェヘ部と朝鮮の兵を配下に47万と号する兵を満州討伐に送り出し、翌年撫順近くのサルフ(sarhū、薩爾滸)において、10万を号する満州軍と激突した(なお、「号して」とした場合、およそ実数は半分といわれる)。数の上では後金軍の不利であったが、明の将軍が功を焦って突出したため各個撃破できたことと、戦闘中に砂塵が舞い上がり、これに乗じて明へ奇襲をかけることができたことなどが幸いし、大勝した(サルフの戦い)。

サルフで明軍に大打撃を与えたヌルハチは、後ろ盾を失ったイェヘを吸収し、完全に女真を統一した。天命6年(1621年)、勢いに乗ったヌルハチは瀋陽遼陽を相次いで陥落させ、遼陽、次いで瀋陽(盛京)に遷都した。この段階で、後金の勢力圏は遼河の東方全域に及んでいた。

天命11年(1626年)、連戦連勝のヌルハチは明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとした。ところがその手前の寧遠城(現在の興城県城)に、将軍袁崇煥ポルトガル大砲テンプレート:仮リンクを大量に並べて後金軍を迎え撃った(テンプレート:仮リンク)。紅夷大砲の威力に後金軍は散々に討ち減らされ、退却した。清の記録では、この敗北の数日後にヌルハチは病死したとされるが、大砲で傷を負い、これが原因で死去したとも推測されている。遺体は瀋陽の東の郊外の福陵に葬られた。

ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、死後に紛糾したが、第8子のホンタイジ(皇太極)が後を継ぐことになった。

ヌルハチはあくまで明からの独立を目指しただけで、明を征服しようと思ったことはなかったと言われる。後継者を定めなかったのも、それまでの部族合議体制を維持しようとしたことの現われとも見られる。

后妃

  • 孝慈高皇后 イェヘナラ(葉赫那拉)氏
  • テンプレート:仮リンク ウラナラ(烏拉那喇)氏 - 最後の嫡妃。ヌルハチ死去時に殉死したとされる。ドルゴンの死後、諡号を剥奪される。
  • 元妃 トゥンギャ(佟佳)氏 - ヌルハチの最初の嫡妃
  • 継妃 フチャ(富察)氏
    • 子女:五子 貝勒テンプレート:仮リンク(莾古爾泰)、十子 デゲレイ(徳格類)、十六子 フィヤング(費揚古)、三女 マングジ(莾古済)
  • 寿康太妃 ボルチキット(博爾済吉特)氏
  • 側妃 イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)氏
    • 子女:七子 饒余郡王 アバタイ(阿巴泰)、二女 和碩公主
  • 側妃 イェヘナラ(葉赫那拉)氏
    • 女:八女 和碩公主 聡古倫
  • 庶妃 ジョーギャ(兆佳)氏
    • 子:三子 鎮国公 アバイ(阿拝)
  • 庶妃 ニウフル(鈕祜禄)氏
    • 子:四子 鎮国将軍 タングルダイ(湯古代)、六子 タバイ(塔拝)
  • 庶妃 ギャムフトギョロ(嘉穆瑚覚羅)氏
    • 子女:九子 鎮国公 バブタイ(巴布泰)、十一子 バブハイ(巴布海)、四女 ムクシェン(穆庫什)、五女、六女
  • 庶妃 シリンギョロ(西林覚羅)氏
  • 庶妃 イルゲンギョロ(伊爾根覚羅)氏
    • 女:七女

日本語文献

  • 若松寛『奴児哈赤』(人物往来社、1967年 中国人物叢書)
  • 今西春秋編『対校清太祖実録』(国書刊行会、1974年)
  • 松浦茂『清の太祖ヌルハチ』( 白帝社、1995年8月 中国歴史人物選)
  • 立花丈平『清太祖ヌルハチと清太宗ホンタイジ 清朝を築いた英雄父子の生涯』(近代文芸社、1996年5月)
  • 松村潤『清太祖實録の研究』(東北アジア文獻研究會、2001年3月)
  • 鄭杜煕、李ギョンスン編著『壬辰戦争 16世紀日・朝・中の国際戦争』(金文子監訳 小幡倫裕訳 明石書店 2008年12月)
  • 三宅理一『ヌルハチの都 満洲遺産のなりたちと変遷』(ランダムハウス講談社、2009年2月)
  • 森田雅幸『天命は易ったか 清の太祖アイシンギョロ・ヌルハチ』(文芸社、2011年8月)

関連項目

テンプレート:Commons category

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